友だちがいない。ならば親が友だちになろう

まさか、息子に友だちがいない

友だち

子どもというものは、生まれて数年は家族と過ごすけれども、成長とともにその時間は減り、外へ出て友だちと遊び出すものと思っていました。実際、天兄はそうでした。けれど、天はちっとも外へ出ていきません。

天には放課後、約束して遊ぶような友だちがいないのです。

これには正直、驚きました。子どもに社交性を期待してはいませんでしたが、まさか友だちがひとりもいない、という事態でになるとは。

 

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天は確かに、保育園でも学校でも、友だちと衝突したりせずにうまくやっています。「やさしくて丁寧」な人柄ととらえられてもいるようです。でもそれは、あくまで「外用の作られた天」。天自身はとても疲れを感じているようです。

部活が終わると急いで家に帰ってきて、その後は一切外に出ようとしません。おやつを食べながらテレビを観たりマンガを読んだり、ごろごろしたり。

友だちと過ごすより、天にとってはそんな時間が大切なようです。「友だち」とは、学校や部活などで顔を合わせばなかよくする人たち、という意味のようで、それ以上の深い交わりには、天はまったく興味がありません。

もちろん人それぞれですから、天が友だちといるより、家でくつろぐことを選ぶことに、なんの問題もありません。

ただ、親として心配なのは、天には「人の中でもまれる」体験が圧倒的に少ないことです。

天はどこから見ても変わりものです。変わりものこそが世界を変える、とわたしは考えていますから、変わりものであってもかまいません。でも、最低限の常識や人づきあいの感覚などは身につけてほしいと願っています。そしてそれは、家庭の中だけ、または本の中やテレビの中だけでは身につけるのは難しいと思います。

複数の他人と関わるなかで、喜んだり悲しんだり、怒ったり怒られたり、うそをついたりつかれたり、そんな体験を積み重ねることではじめて「よい加減」の人との距離のとり方、言葉の使い方、立ち居振る舞いを学ぶと思うのです。

ただ、天に無理強いはできません。あるがままの姿を認めることは、子どもを育てるうえでは欠かせないことです。

わが家の休日の過ごし方

そこでわが家では、休日はできるだけ、天と行動を共にすることにしています。できれば外出します。どこでもよいのです。近場の本屋さん、図書館からはじまって、ホームセンターやドラッグストアなど。映画館や美術館、博物館、行く宛てがないときは、選挙の演説会にも足を運んだこともあります。特に天の興味がなくても、その場の空気を感じておくことが、天のひとつの体験として天の中で積み重ねられると信じています。

季節がよいときは夫も巻き込んで、大きな公園や登山などにも出かけます。自然の中では過ごし方のルールがないですから、何をやっても自由です。子どもに対して怒ったり、行動をとがめたりする必要がありません。ですから、親もほっと心を解放することができます。そうやってのんびり過ごしているなかで、天から自然に学校での話などが出てきたりします。

昨日は、家族みんなでバレーボールをしました。出かけた先にたまたまコートがあり、だれでも自由にプレーすることができたのです。バレーボールそのものがひさしぶりでしたし、家族でコートに立つということも、はじめての経験でした。実際にボールを使ってみて、天の運動能力が想像以上に発達していることに驚き、逆に、自分の体力が想像以上に低下していることにがっくりきました。そんな発見も、外出することではじめて味わうことができます。

天が人と関わることが少ないかわりに、親がとことんつきあう。それがいつか、それが人と過ごすことは楽しい、と思ってもらえるきっかけになればよいと願っています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 

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学習塾を経営しながら、発達障害グレーゾーン中学生の息子・天を絶賛子育て中。 楽しかったり楽しくなかったり、うれしかったりうれしくなかったりする天との毎日を、母の目から率直につづります。