
天と暮らすなかで、天への期待のハードルを下げて下げて下げ続けて、たいていのことにはおどろいたり、怒ったりしなくなりました。
天が食事を残さず食べなくてもがっかりすることはもうないし、夜なかなか寝なくても、気になってふとんの中で「まだ起きているけど、いつ寝るのだろう…」ともんもんとすることは、ほぼなくなりました。でも、これだけはなんとかならないものか…いや、ぜひなんとかしてほしい、と思っているのが、「片づけ」です。
天は片づけができません。かばんは玄関に置きっぱなし、食べたものは食べっぱなし、脱いだものも脱ぎっぱなし、ごみも散らかしっぱなし。放っておかれたそれらは、どうやら、天の目には入っていないようです。
わが家では、わたしがいちばんに寝て、いちばんに起きます。
朝からすぐに洗濯や朝食づくりにかかれるように、きれいに整えて寝たはずなのに、起きると、まったくちがった景色が広がっています。リビングはさきほど述べた状態ですし、台所にも、汚れたおなべが置かれています。遅くまで起きている天が、おなかがすいてラーメンでも作って食べたのでしょう。まずは片づけから始める朝になります。やれやれ。
天が片づけができないようだ、とは、小さいころからうすうす感じていましたが、子どもというものは、たいていそうです。たとえ片づけができなかったとしても、そもそも持ちものが少なく、しかもどれも小さい、かわいいものです。散らかっていても、そう気にはなりません。もちろんその都度いっしょに片づけをしてきましたが、たとえ今は上手にできなくても、成長とともにひとりで片づけられるようになっていくだろう、と楽観的に構えていました。
しかし、中学生になった今でも、天は教科書、ノート、プリント類は床に置きっぱなし。筆箱の中も、ときどきチェックしてみるのですが、古びたえんぴつやら紙切れやらがつまっています。
いちばん問題なのは、自分が出したごみすら捨てることができないことです。お菓子を食べたら包み紙はそのまま。お水を飲んだらコップはそのまま。みかんを食べたら皮はそのまま。天が何を食べてどう過ごしていたか、まわりに置かれたものを見れば、全部わかります。
わたしの体力がもたない

天にできないことはたくさんあって、その大部分は許容範囲にしていますが、なぜ片づけだけは例外にできないかというと、それはひとえに、わたしの時間と体力の問題です。
放っておかれたプリントやごみや食器は、天が片づけるまで放っておく・・・というのが、しつけの王道でしょう。しかし、そうすると、天が学校から帰ってくるまで待たなくてはなりません。わたしは基本的に家で仕事をしていますから、汚い部屋の中で一日を過ごすとなると、自分の精神状態に問題が出てきます。ごみが目に入るたび、気持ちが沈むのです。
しつけの王道と自分の精神状態と、どちらを優先するかといえば、もちろん自分の精神状態です。なので、片づけることにしています。
プリントは、たいてい、科目や日付がばらばらに重なっています。気質上、そのまま片づけることができないので、科目ごと、日付順に並べ替え、くしゃくしゃになっているはしっこを伸ばし、上から教科書などで押さえます。プリント類はしばらくそのままにして、今度はごみです。お菓子の包み紙とプラスチックの袋を分別してごみ箱に入れ、食器を流しに運び、脱いだままのパジャマは洗濯カゴに放り込み、その合い間にプリントが伸びたか点検し、教科書類とあわせて天の部屋に運びます。
そういうわけで、リビングと台所、天の部屋、などを行ったり来たり、片づいたときには、へとへとになっています。
成長とともに片づけもできるようになるはずだ・・・と期待していたわけですが、そこはやはり、天でした。興味のないことは絶対できるようにならないのが、発達障害なのです。
ふり返ってみれば、天に片づけを身につけさせたいと思って、膨大な時間を費やしてきました。いっしょに片づけをし、片づけの大切さを話し、自分自身も常に片づけを行ってきました。しかし、だめだった…
そもそも天は、「片づけ」の意味がわかっていないのではないか、とも思います。「きれいに片づいていると、気持ちがいいよ」と前向きな言葉がけを心がけてきましたが、その言葉たちは、天の心にまったくしみこんでいないように思います。少なくとも天には、「部屋がきれいなこと」=「気持ちがいいこと」ではないようです。
片づけができないと、成績も下がる

天の中学校では、提出物が成績の重要な部分を占めています。提出物を期日までにきちっと出せば、評定が2上がるらしい、と言われているほどです。
そういう目で、あの、くしゃくしゃのまま床に放り出されているプリントたちを見れば、天の成績がよくないのも素直にうなずけます。
もちろん天は、提出日前にはプリントを(天なりに)整理して、ノートに貼ったり丸付けをしたりファイルしたりしています。ふだんからやっていれば毎日数分で済むものを、まとめて何時間もかけてやっています。
しかし、不備があるようです。プリントが足りない、丸付けが完全ではない、やり直しができていない、などなど。もちろん、そうでしょう。
懇談では担任の先生にも指摘されました。「おしい。本当におしい。提出物を完璧にしさえすればもっと…」
まさか、当の天も、黙っていればだれにもばれるはずのなかった「片づけができない」という苦手分野が、表舞台で大手を振って自分を困らせにやってくるとは、思いもしていなかったのではないでしょうか。
つまり、天にとっては、習慣を変える大きなチャンスが来たわけです。
片づけのレベルは、個人的なものです。
整然と片づいていなければ落ち着かないというタイプもいれば、散らかっていても、自分の中では秩序だっていて困ることはないというタイプもいます。しかし、それは試行錯誤をくり返して、自分に必要なもの、必要な空間、必要な時間がわかったうえでのことではないでしょうか。
天がプリントをくしゃくしゃにして放り出していたとしても、自分で最後、きちっと締めることができれば、まったく問題がないと思います。
だから、自分を理解するために、毎日片づけの練習をしないといけないのだ、天、と心の中で念じながら今日もプリント類の整理を行っていて、ふと気づきました。
いっけん、乱雑に置かれているように見えるプリント類は、実は天によって、仕分けがなされていました。
学校からのお手紙に混じって、英語のスペリングコンテストで100点をとった解答用紙が、わざわざテーブルの上に置かれていたのです。ほかのプリントは、教科書やノートとともに、床に放り出されています。
2学期の最後、天はヘルペスにかかって終業式にも出席できませんでした。
3学期は心機一転、まずは最初に行われるスペリングコンテスト、がんばってみようか。
お正月に天とそんな話をしていことを、ふと思い出しました。
スペリングコンテストでも結果を出したし、片づけも、なんとなく、できているじゃないか。自分にとって大事なものと、そうでないものがわかっているじゃないか。
うれしくなって、実はもっともっと片づけができるようになるんじゃないか・・・と、つい期待のハードルを上げそうになってしまいますが、それは御法度。天の行く道を、追いかけていくだけです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。