慣用句で考えると、子育ても味わい深いかもしれない

日本には古来より、「慣用句」と呼ばれる言い回しがあります。子育てをしていると、特に天のような常識にとらわれない子どもを相手にしていると、頭で理解しているだけだった「慣用句」が、体感できる言葉として身に迫ってくることがあります。

たとえば。

まだ宿題もすんでいないのに、「もう終わる」と言っているゲームがなかなか終わらない。「そろそろ終わろうか?」と声をかけると、「もう終わる」。「あと何分で終わるの?」「それは言えないけど、もう終わる」。「もう終わったかな?」「わかっているから。もう終わる」「まだ終わってないのかな?」「もう終わる」…その後何分たっても、何十分たっても、終わる気配がありません。会話はいつまでたっても

「いたちごっこ」

です。同じことをくり返し、進展のないさまを「いたちごっこ」といいますが、まさに天との会話が「同じことをくり返し、進展のないさま」。ああこれが、かの有名な慣用句が表す状態なのかと、実感したのです。

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いたちごっこののち、やるやると言っていた宿題が手つかずのまま、テーブルに残されているのを発見した朝。

「開いた口がふさがらない」

自分の子どもがあれだけ「やる」「わかっている」と主張するのだから、親としては信じるしかありません。けれども、宿題は堂々と終わっていない。驚き、あきれ、ぽかんと口が開きました。

「上の空」

天兄とのオンライン学習の間、天兄が説明しているときの天のようす。

 

くわしくはこちらをご覧ください。

親が勉強を見るのが難しいとき。だれかに助けてもらおう

 

やはり、ひとの話を集中して聞くことがむずかしいようです。パソコン画面のカーソルの位置が気になるようで、あちこち動かしています。さて、勉強の内容は頭に入ったのかどうか。

「図に乗る」

ピアノの練習中、「今の曲よかったね」とほめると、「そうでしょう?ボクやっぱり天才!」と、たちまち有頂天になります。そうして、そこで満足して練習をやめてしまいます。もちろんすばらしかったからほめるわけですが、その裏にはやはり「そこまでできるのだから、もっと練習して上手になってくれたらうれしい」という親の願いが隠されています。けれども、天にはそれが通じません。「子どもはほめて育てよ」と言われますが、ほめると図に乗り、それ以上の努力をやめてしまう子どももいます。

「棚に上げる」

夫が帰ってくると、「おかえり」より早く「手を洗ったか」と迫る天。どうやら天の中では、このコロナ禍、手を洗うのは最重要事項のようです。しかし、天のまわりをよく見ると、脱いだままの制服、食べたままのおやつのお皿、読んだままのマンガや新聞などなどが放り出されています。まさに

「足の踏み場もない」

状態。自分のことは棚に上げ、人にはルールを守るよう厳しく迫る。天ならではです。

「血も涙もない」

仕事から疲れて帰ってきたとき、さきに帰ってテレビを観ている天に、「洗濯物を入れてくれる?」と頼むと、「ぼくだって疲れている。ママがやればいいでしょ」と返してきます。いや、みんな疲れているのだから、助け合おうよ。そうしてくれたら、助かるよ。この悲鳴のような声が伝わらないなんて、あなたに心はあるのだろうか。いや、もしかして聞き取る耳がないのか。「ごはんを作るから、洗濯物を頼む」と言っても、

「聞く耳を持たない」

そんなとき、

「怒髪天を衝く」

このような状態になります。落合恵子さんが、きついパーマをかけた自分のヘアスタイルを「怒髪」と形容しておられますが、わたしのストレートヘアもきっとこのように逆立っていると思われます。

「口がすっぱくなる」

梅干を食べすぎたわけではありません。天に対しては、何度でもおなじ言葉を言わなければなりません。天の中には「積み重ね」という概念がありません。もうおなじ言葉を言いたくないので、「帰ってきたらかばんを片づけよう」「食べたら片づけよう」などと書いた色画用紙を何枚か用意しています。それをTPOにあわせて置いておくのですが、効果は今ひとつ。やはり言葉のほうが効果的なのかもしれません。そして今日も言うことになるでしょう。「出した物はもとにもどそう」「早く寝ないと朝起きられないよ」と。けれども、天はきっと聞く耳を持ちません。

「肩透かしを食う」

天とはよく話をします。勉強について。人づきあいについて。人生について。そういうとき、天は神妙な顔をして聞いています。質問をしたり、意見を言ったりもします。しめしめ、と思います。わたしの言葉が天にしみこんで、これで明日から、天はいい子になりそうな気がする。天に関する心配事はなくなりそうな気がする。ほっとして明日を迎えるわけですが、やはり天は変わりません。変わらないこと。これはもしや、天の生きる姿勢なのか、とさえ疑ってしまいます。

こう考えていくと、天との毎日は、慣用句でいっぱいです。慣用句とは、日々起こる雑多で複雑な機微を表現するために昔の人々が生み出したもので、人間のおもしろさが凝縮されているといえます。身近なものを使って的確な表現を作り上げることで、その瞬間瞬間を楽しんできたのではないか、とさえ思えてきます。

このたび慣用句をあらためて調べてみましたが、前向きな意味、明るい意味の慣用句というものは、案外少ないのです。ということは、この複雑な感情を抱えて笑いとばしながら生きていくのが人生だ、という、人々の思いが反映されたものが慣用句である、と思えてきました。

これからも、このような面倒な毎日を生きていくと思います。「途方に暮れたり」「手を焼いたり」「目に余ったり」する日々を続けていきながら、子育てを存分に味わっていけたらよいなと思っています。

最後までおつきあいただき、ありがとうございました。

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学習塾を経営しながら、発達障害グレーゾーン中学生の息子・天を絶賛子育て中。 楽しかったり楽しくなかったり、うれしかったりうれしくなかったりする天との毎日を、母の目から率直につづります。