「いつか大人になるのか」問題

発達障害グレーゾーンの天が、定刻に学校へ行き、帰って勉強をして、ごはんを残さずに食べ、適正な時間にふとんに入って寝るのか…今日一日のことすら予想がつかずに悶々として、ストレスと闘う毎日を過ごしていますが、ときどき、ぼんやりと思いをめぐらすことがあります。

天もいつか、自立した大人になるのだろうか、いや、なれるのだろうか…

そして、漠然とした不安に包まれます。

なんとなく、なれないと思う。

では、わたしの考える「大人」とは、いったい何を指しているのだろうか。それをはっきりさせれば、この「漠然とした不安」はなくなるのかもしれない。

大人になる、自立するということにはさまざまな定義があると思いますが、わたしにとっていちばんしっくりくるのは、「自分の頭で考え、行動できる人間になること」です。

真の意味で、自分の頭で考えて行動している人は少ない、と日々感じています。価値観が多様になってきている今だからこそ、自分の頭で考え、納得できる人生を歩める人になってほしい。

さて、そういう視点で天をよくよく観察してみると…

もしやもしや天は、いや天こそ、まわりに流されることなく、自分で決断して行動できる人間なのではなかろうか?

たとえば、テストがあっても、準備して臨むことはけっしてない。

演劇の舞台本番の日であっても、朝ぎりぎりまで寝て体力を温存する。

プリントなどの置き場所は、常に床。

食事では、食べたいものだけをピンポイントで選んで食べる。

この、変わっているけれども首尾一貫した決断と行動を自立と呼ばないで、いったい何をそう呼ぶのだろうか?

天は決断と行動を行う際に、けっして迷ったり、人に気を遣ったりしません。まさに「自分で決めて」、周囲の意見にはまったく耳を貸さずに自信に満ち満ちて行動します。

もし「自分の頭で考え、行動できる」ことを大人の定義とするならば、天は立派に自立しています。

けれども、こう考えたときに残る、ざらりとした違和感はなんだろうか…

天が「自立している」と考えるには、どうにも無理があるように思うのは、気のせいだろうか。

いや、気のせいではないでしょう。やはり「自立」については、多方面から考えることが必要だと思います。

その対比として思い起こすのは、次のことです。

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「ほどほどがわかる」の奥深さ

ほどほどがわかる

「大人とはなんだろうか」問題で、折にふれて思い出すのは、大学で出会った先生の言葉です。

確か、福祉か心理学の授業でした。

最初の授業で先生はにこやかに、「みなさんは、大人になるということはどんなことだと思いますか?大人になるということは、ほどほどがわかる、ということです」とおっしゃったのです。

そのときは、「なんだって?」と目が点になりました。

当時のわたしは、大人になることを特別な何か、とても難しい何かだと考えていました。たくさんの困難を乗り越えて開けたところに出たときにようやく出会える、ぴかりと輝く別格のものだととらえていたのです。

ですから、先生のおっしゃった、「ほどほどがわかる」という、ひらがなばかりの定義はあまりにも平凡に響きました。ほしいと思えばすぐに手に入りそうな、明日目覚めたときにはすぐに目の前にありそうな、当たり前すぎる定義に思えたのです。

それだけに逆に印象に残り、その後、折にふれてこの言葉を思い出しては考えをめぐらせてきました。

そして最近になって、「ほどほどがわかる」というこの言葉ほど、大人を的確に表した表現はないのではないか、と思うようになりました。

子ども時代はだれでもほどほどがわからず、なんでも徹底的にやってしまいます。時間や距離や金額などにおかまいなく。人間関係においても、適度な距離感がわからず傷つけたり傷つけられたりする。

極端な行動をくり返し、あっちで頭を打ったりこっちで頭を打ったりして、だんだん自分なりの「ほどほど」がわかるようになる。

そうして磨かれた結果、「大人になる」のではないでしょうか。

つまりは、自分なりの意見を持つことは大事。でも、その「丸めどころ」がわかるようになることがもっと大事。「大人になること」を、今はそう考えています。

ひるがえって、天はどうでしょうか。

テレビは観たいだけ観る。寝たいだけ寝る。勉強は提出日直前だけ。やりたいことしかやらない。

残念ながら、天には、この「ほどほどがわかる」はまったく当てはまりません。いつも自分中心で、すべての行動が極端です。つまり、自立してなどいないのです。

わたしのざらりとした違和感の正体は、これなのだと思いました。

天を見ていると、いつも不安。それは、「ある程度」を過ぎれば、自分で気づいて行動を変えるだろう、という期待ができないからです。

ある程度成績が下がれば、そのうち勉強するようになるだろう。ある程度遅刻を続ければ、そのうち自分で起きるようになるだろう。ある程度テレビを見続ければ、そのうち飽きて観なくなるだろう。それが、天にはありません。だから、いつまでも心配。

これが発達障害グレーゾーンの子どもに持ってしまう、不安と心配の根源なのかもしれません。

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しかし伸びしろがある

伸びしろがある

そうはいっても、天も毎日少しずつ成長しています。

たとえば、親戚の人たちへの受け答え。

誕生日祝いなどのお礼を言うために、おじいちゃんやおばあちゃんに電話することがあります。以前なら、きっかけがつかめず、伝えたいことを伝えられずに電話を終えていました。けれども最近は、自分から必要な話ができるようになっています。

今、盛大に「極端をやっている」のであれば、いつかそのぶん盛大に頭を打って、「ほどほど」がわかるようになるはずです。もちろん、その振り幅は常識をはるかに超えるものになるでしょうから、時間はかかるでしょう。けれども、だんだんおさまるべきところにおさまってくるのではないか…と淡い期待を持っています。

そして、天は人に気を遣ったり期待したりしないぶん、心が折れたりいじけたりせず、とても純真です。これはたぶん、発達障害グレーゾーンの子どもたちに共通する長所ではないかと思います。

天があちこちでごんごんと頭を打つ、その音をぜひ聞きたいと思っています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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学習塾を経営しながら、発達障害グレーゾーン中学生の息子・天を絶賛子育て中。 楽しかったり楽しくなかったり、うれしかったりうれしくなかったりする天との毎日を、母の目から率直につづります。