「毒親」母は発達障害だった

毒親

今回は、息子の天ではなく、実母の話です。

わたしは物心ついたときから、ずっと母親に対して違和感を抱いていました。

なんでこの人は、話を聞いてくれないのだろう。

なんでこの人は、すぐ怒り出すのだろう。

なんでこの人は、人の悪口ばかり言っているのだろう。

ずっと不思議に思っていました。

そして、母に対して、そんな疑問を抱いてしまう自分はいけない子、だめな子だと感じていました。

ですから、わたしの子ども時代は相当つらいものでした。

母親はぜんぜんやさしくなかったうえに、母親がいやだと思っている自分がいやだったからです。

母親は明るく勝ち気で、声も態度も大きい人です。いつも自分が場の中心にいないと気が済まないタイプで、わたしたち家族は、それに従ってきたように思います。いつも話題は自分が振り、ずっとしゃべり続ける。自分の話こそがおもしろいと思っているから、人の話を聞く耳を持たない。

今でもわたしは、自分の意見を言うとき緊張します。子どものころに、話を最後までゆっくり聞いてもらったことがないからです。その経験が、自分の意見は聞いてもらう価値がないのだ、という、ゆがんだ認識をわたしの中で生みました。

優等生だったわたしは、作文や書道、絵画でもたびたび賞をもらいましたが、母にほめられたことはありません。賞がとれたのは「たまたま」であり、「このレベルでもいいのね」と、逆にけなされた記憶があります。なのに自分の友人には、盛大に自慢していました。

中学のときの懇談で、担任の先生が「文章を書くのがすごく上手ですね」とほめてくれたことがあります。

家に帰った母はこう言って、ばかにしたように笑い飛ばしました。

「本をたくさん読んでいるから、その上手な文章をまねしているだけだ」と。

母は、ことあるごとに、わたしが情がなくて、頭が固くて、視野が狭くて、融通が利かない人間だと言い続けてきました。だからわたしも自分のことを、情がなくて、頭が固くて、視野が狭くて、融通が利かない人間だと、思い続けてきました。

だから、何か行動を起こすとき、不安で仕方がありません。わたしが「情がない」から母を怒らせてしまったように、他人を怒らせてしまうかもしれない。わたしが「頭が固い」から母を不快にしてしまったように、他人を不快にしてしまうかもしれない。わたしの「視野が狭い」から母をあきれさせてしまったように、他人をあきれさせてしまうかもしれない。とにかく他人の視線が気になって、自分の一挙一動を見張ってしまい、思うままに行動することができないのです。

それがだんだん変わってきたのは、大学に入ったり社会に出たりして、他人と深く関わる機会が増えたころです。

社会には、母ほど厳しい言葉をかけてくる人はいませんでした。それどころか、母よりやさしい人ばかりなのです。

興味を持って、わたしの話を最後まで聞いてくれます。着ている服や髪型をほめてくれます。わたしが落ちこんでいると、「どうしたの?」と手をさしのべてくれます。わたしが何か失敗して、「~すべきだった」と反省していると、「『すべき』なんて思わなくていいよ。そのままでいいよ」と励ましてくれます。

そんな経験を重ねてようやく、母に決めつけられてその結果形成されたわたしの中の「わたし像」が、実はまちがっているのでは・・・問題があるのは、むしろ母のほうなのでは・・・と思うようになったのです。

最近よく聞く「毒親」という言葉がありますが、その言葉をはじめて耳にしたとき、まさしく母のための言葉だな、と目が覚めるような気がしたことを覚えています。そして、「実は母も幼少時代に、つらい目に遭ってきたのでは」と考え、母を理解しよう、そうすればきっと自分も救われるはずだ、と努めてきました。

けれども最近、自分なりに心理学や発達障害について勉強してきて、はたと気づきました。

相手に寄り添う言葉づかいができない。相手の気持ちを考えない。感情のコントロールができない。体面ばかり取り繕う。などの特性から考えると、実は母こそ発達障害なのではないか。

そうすると、母の言動の、すべてのつじつまが合います。

わたしが母と合わなかったのは、わたしが原因ではなかった。母に、原因があった。

それがわかって、すごく楽になりました。わたしは欠点だらけの変わりものだったのではなくて、逆にふつうの感覚を持っていたからこそ、母に傷つけられてきたのです。わたしは、わたしの信じる「わたし像」で、堂々と生きていっていいのです。

そして、母は確かに毒親ではありますが、それが母の人格ではなく発達障害に起因するならば、対するこちらの心構えもちがってきます。たとえ母がとげのある言動をしても、いちいち傷つかず、距離をとって、さらりと無視しておけばよいのです。

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そんなわたしの、子育ての信条

信条

子ども時代がつらかったせいで、いつか子どもを持ったらこうしよう、と決めていた、いくつかのことがあります。

ひとつは、絶対にやさしいおかあさんになる、ということです。

母は「女が家を出るのは結婚するとき」と言い張っていましたから、なんとか結婚にこぎ着けてようやく家を脱出し、子どもを授かりました。

やさしいおかあさんになることは簡単でした。「反面教師」の例が、自分の中にはたくさん蓄積されていたので、すべてその逆をやればよかったのです。

子どもには、毎朝毎晩ぎゅっと抱きしめて、「大好きだよ」と浴びせるように言い続けました。子どもに対するときは、いつも笑顔であるように心がけました。子どもが何か言ってきたら、必ず手をとめて、最優先で話を聞くようにしました。そして、子どもが何を言っても、まずは「そうね」と受けとめてから、わたしの意見を伝えるようにしました。子どもが「やりたい」と言ったことには、「だめ」とはけっして言いませんでした。子どもが服をどろどろにして遊んできても、水たまりの中に入ってびちょびちょになっても、怒りませんでした。そして、そんなすべてが苦になりませんでした。それほど、「やさしくない母親=母のような母親」にはなりたくなかったのです。

当時のわたしを見て、母は言ったものです。

「男の子なんだから、厳しくしないとだめな子になるよ」

子どもたちは、だめな子にはなっていません。天は発達障害グレーゾーンですが、やさしい子に育っています。

もうひとつ決めていたのは、子どもをできるだけ早く、保育園に入れることです。

よくも悪くも、子どもは親の影響を受けます。わたし自身が親のよくない影響を受けすぎたことから、子どもは親だけでなくたくさんの大人の影響をまんべんなく受けたほうがよい、と考えていました。逆に言うと、子どもを産んだときはまだ自分に自信がなかったので、「だめなわたしの影響を受けすぎたらたいへんだ」と考えていた、ともいえます。子ども自身がいろんな価値観に触れて、その中から、自分に合うものを選びとってくれたら、と考えていました。

ですから、兄弟ふたりとも、一歳から保育園に入れています。

もちろん母は、「小さいときから社会に放り出されてかわいそう。たいした仕事もしていないのに」とわたしを攻撃してきましたが、決意は揺らぎませんでした。

結論から言えば、子育てのプロである保育士さんにお任せできることで、精神的にも体力的にもおおいに助けられましたし、また子どもたちも友だちに囲まれて、健全に成長できたと思います。

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しかし、母はあきらめない

母話はここで終わりではありません。

数年前、母は脳梗塞になり、後遺症で半身が動かなくなりました。ふだんは父が世話をしていますが、わたしも一、二週間にいちどは実家に行って、母親の世話をしています。

母はまさか、こんな手段を使ってまでも、わたしを支配しようとしているのだなあと、半ば感心しながら考えています。母にとっては娘の自立など、自分のからだを壊してでも阻止しなければならないことのようです。

母は変わっていません。ずいぶん弱くはなったものの、指示を出して自分の思いどおりに周りを動かそうとします。そして、思いどおりにならなければ突然怒り出します。

けれども、よいのです。わたしはわたしの人生を、生きていくだけです。心の中で距離をとり、自分を大切に生きる、というやり方を、わたしもようやく学びました。そしてその生き方は、子どもたちが教えてくれたものです。

母と娘の物語はたぶん、まだまだ続きます。その物語の主人公は間違いなくわたしで、それを背負っていかなければならないのだなと、と思っています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 

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学習塾を経営しながら、発達障害グレーゾーン中学生の息子・天を絶賛子育て中。 楽しかったり楽しくなかったり、うれしかったりうれしくなかったりする天との毎日を、母の目から率直につづります。