子どもに勉強させるために、「時間を決める」「量を決める」などのルールを作り、毎日必ず守らせるのがよい、といった話をよく聞きます。
わたしも、そう思ってきました。毎日コツコツ積み重ねてこそ、勉強する習慣は身につくし、成果が上がる。それを生むのが、「日々のルール」だと。
けれども、ここ何週間か、それは本当だろうか…という疑問が浮かんでいます。
もちろん、天を見ていて、のことです。
わたしは毎日、仕事をする時間を決めています。そして必ず、一定量をやるようにしています。
それは、使える時間に限りがあり、しなければならない仕事量は決まっているため、一定量を必ずこなさなければ間に合わなくなって、結果的に自分が困るからです。
仕事ですから、毎日黙々と取り組むわけですが、これを続けているうちに、心の中に、ある感情がわき上がってきます。
それは、「義務感」です。しなくてはならない、やり遂げなくてはならない、という「しばり感」です。
義務感が心を支配しはじめると、仕事を楽しむ余裕はなくなって、まさに「終わらせる」ための「こなす」作業と化していきます。
そして、決められた時間または決められた量が終われば、「やったあ!終わったあ!」と喜び、それきり仕事のことを考えなくなります。義務感を持ち、ルールどおりに仕事を終えたわけですから心の底から満足して、それ以上の仕事は絶対にやりません。
そんな自分の気持ちを観察していて、ふと思ったのです。勉強も同じではないか…
天のやり方を見ていると、必要があったとき、自由に空き時間にやっています。つまり、テレビの合い間、バランスボールの合い間、スマホの合い間、おやつの合い間などです。あくまで「合い間」なので、長い時間ではありません。でも宿題は必ず終わらせています。
そして、やろう!と思ったときは、朝であろうと、昼であろうと、夜中であろうと、やっています。また、ダイニングテーブルであろうと、ミニテーブルであろうと、床の上であろうと、やっています。そこにはルールなどありません。つまり、逆説的になりますが、ルールがなければ、いつでも、どこでも、勉強することができるのです。
これはもしや、理想的な勉強のしかたなのではないだろうか…
天のらく~な姿勢を見ていて、ふと、そう思いました。
見方によっては、天のやり方は行き当たりばったりに見えますから、ほめるつもりはゆめゆめありません。しかし本来、勉強とはこのように自由なものかもしれない、と考えているのです。
もちろん、天には時間がたっぷりあり、若くて体力も無尽蔵ですから、大人と単純に比較はできません。
けれども、ルールがないからこそ、「義務感」なく勉強できるという可能性は、いちど検討してみなくてはならないのではないでしょうか。
もちろん、毎日一定時間勉強することや、一定量を積み重ねることは、とても大切です。その合計量が自信となり、糧になることは、疑いようがありません。また、勉強はある程度やらなければおもしろさがわかりませんから、それまでは、ルールを作って規則正しく行うことが必要ではあるのです。でも、逆に言えば、「それ以上」の効果は期待できないのではないか、と思うのです。
なぜなら、わたしの実感からわかるように、勉強にルールを作ってしまうと、義務でこなすだけになってしまい、なんのおもしろみも感じられなくなります。長い目で見たときには、自発的に勉強するようにはならないのではないでしょうか。
また、ルールを作ることは、「行動を制限する」ことですから、結果的に「心の動きを制限する」ことにつながります。つまり、「知りたい」「わかりたい」という気持ちにも、歯止めをかけてしまうことになってしまいます。
どうやってルールなしに勉強させるか
でもルールなしでは心配…
と考える方が多いと思います。
それに関しては、わたしは明確な考えを持っています。それは、「毎日の生活の中に、勉強を取りこむ」ことです。
たとえば、いっしょに散歩をして、空や木や草など、目にするものについて話をする。会話の中にことわざを入れる。部屋に日本地図や世界地図を貼る。図鑑を買いそろえる…などなど、生活の中で自然に勉強できる環境を整え、「勉強している」という実感なしに、知識を増やし、考える時間を組みこんでいくこと。外で見た草を図鑑で調べるなど、調べ学習までとり入れれば、完璧です。
ところでみなさまは、「おおいぬのふぐり」という雑草をご存じでしょうか。
春に小さな青い花をつけるポピュラーな雑草ですが、最近、この花を知らない子どもが多くなっています。もちろん住環境の変化など、子どもに責任のない要素もありますから、知らないことを子どものせいだけにすることはできません。
けれども、この小さな「おおいぬのふぐり」を知っているか知らないかでは、のちのちの勉強に、大きな差が出てくるのです。
この「おおいぬのふぐり=早春を知らせる花」が登場する物語や詩はたくさんあり、「おおいぬのふぐり」という文字を目にしたとたんに「春の物語だ」とひらめくことは、作品の理解を深める上で非常に大切なのです。
つまり、散歩の途中でおおいぬのふぐりを目にしたとき、「おおいぬのふぐりだね」「春に咲くね」と話をする。そんな小さなことが?と思われるかもしれませんが、その「小さなおおいぬのふぐり」的な積み重ねが、学力の土台を作っていくのです。
机の前に座って問題を解くだけが勉強ではなくて、毎日目にするもの、ふれるものすべてが勉強だと気づくことができたとき、子どもにとっての勉強の扉は、大きく開かれるのではないでしょうか。小さな道ばたの草にも、そして空に浮かぶ雲や虹、川の名前や町の名前、飛びまわる鳥や昆虫などにも勉強する意味が隠れているのだと知ったとき、子どもたちの好奇心は、どこまでも羽ばたいていくと思います。
「コミュニケーション」としてのルール
もうひとつ、ルールで注目したいのは、「ルールをめぐるコミュニケ―ション」の面です。ルールを作って子どもをしばる必要はないけれども、ルールがコミュニケーションのきっかけになることはある、と考えています。親の声かけは、ルールを守っているかどうか?から生まれることが多いからです。
では、コミュニケーションの生まれるルールを作るとすれば、どうすればよいか。
これについてもわたしは最近、考えがはっきりしてきました。
それは、最低限のひとつにしぼること、です。
しかも、いろいろに応用がきくものにするのがよいと考えています。
たとえば、勉強についていえば、「字をきれいに書く」。
このひとつだけをルールとして決めておけば、宿題をやったかどうか確認したいとき、子どもに
「今日の宿題、字をきれいに書けた?」
と、聞くことができます。宿題をやっていれば、「きれいに書けたよ」と答えるでしょうし、そうでなければ、「今からやるところ」などと答えるでしょう。
どっちにしても、たずねたのは「字がきれいに書いたかどうか」というひとつのルールに関してだけですし、子どもはそのことのみ答えます。けれども、親には全部わかります。
子どもが充実した勉強をやったかどうか。勉強にやる気があるかどうか。まだまだ先延ばしするのかどうか。
そして、「よくやったね」とほめたり、「きれいな字を楽しみにしているよ」と励ましたりすればよいのです。
ですから、がみがみ言う必要はまったくなくなります。
また、どうすれば字をきれいに書けるだろうか、おかあさんはこんな工夫をしていたけど…といった会話も生まれやすいのではないでしょうか。
ちなみに、天とのルールは、以下のひとつです。
「宿題はきちんとやる」
これが、勉強でも、生活でも、すべてに共通するたったひとつのルールです。宿題がきちんとできているなら、ほかの勉強はしなくてもよい。テレビを観てもよい。夜ふかししてもよい。ルールはほかにもいろいろいろいろあったのに、結局、これだけになってしまいました。
ルールを作っても、天はどうやら守る気はないようです。そしてわたしも、心のどこかで天を疑っているので、「ルールを守っているだろうか」といつも心配していました。でも、もう、心配することをやめました。
親のやることは、子どもをかわいがり、楽しく過ごすことだと思います。そのために、よりよい道を選択しつづけることは、何より大切ではないでしょうか。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。