天も中学3年生となり、いよいよ受験生となりました。
でも、予想どおり、まったく勉強はしていません。
というより、発達障害グレーゾーンという特持を持つ天には、そもそも受験勉強は無理だな・・・と思うようになりました。
なぜか。
それは、
計画を立てることができないから。
積み重ねることができないから。
自分を客観的に見られないから。
何より心が弱いから。
ということで、順にご説明したいと思います。
計画を立てることができない
天が計画を立てることができないたちであることは、小さいころからうすうす気づいていました。けれども、小さい子どもはたいていそうです。成長とともに、自分のペースに合った計画を、なんとなくでも立てて実行できるようにはなるだろう、と期待していました。
でも、その期待はみごとに裏切られています。
今に至っても、天は計画を立てることができないままです。
たとえば一週間後にテストがあったとします。テストがあることはぼんやりわかっているようです。勉強しようという「やる気」もぼんやりとあるようです。しかし、範囲をざっと復習するなら、どれだけのペースでどれくらいの量をこなせば万全か、という逆算のうえでの計画が立てられません。
いや、計画は立てているようです。
学校では、テストごとに各自「テスト勉強計画表」を作ります。しかし天の場合、実践できるように練られた無理のない計画ではなくて、スペースをパズルのようにびっしりと埋めることだけが目的の、まさに「絵に描いたもち」の計画なのです。この計画表によりますと、天は学校から帰って、平日は5~6時間ほど勉強することになっています。土日などは、10時間ほどするようです。
このとおりに実行すればすごい!成長したね!となるわけですが、もちろん実行はしません。
このような、「絵に描いたもち」の計画でなくてよいのです。なんとなく心づもりがある、くらいでよいのです。それがあるかないかでは、毎日の過ごし方がちがってきます。
一緒に計画を立ててみようかと声をかけてはみるのですが、天としてはやる気はあるので=やれると思っているので、「自分でやる」と答えます。本人がやると言っている以上、任せるしかありません。
しかし、任せても、その後一向に具体的な何かが出てくるわけではありません。計画が立てられないのであれば、計画にはこだわらずに、何かしら小さなことから勉強を始めればいかがなものかなと思うのですが、それもできません。
「勉強の計画を立てる」とは、「勉強について」はもとより、「自分はどうありたいか」「未来をどうしたいか」に思いをはせることだと思います。それをないがしろにしているようでは、勉強に取り組むことなどできないと思います。
積み重ねることができない
人はだれでも、「積み重ねよう」と意気込んで「積み重ねる」のではありません。
継続的に何かをやり続けることで、知らず知らずのうちに「積み重なっている」ものではないでしょうか。
たとえば英語を勉強するとき、まずは単語でも覚えてみようか・・・と考えます。一日ひとつでも覚えれば、二日でふたつ、三日でみっつ・・・と増えていきます。けれども、天にはこの「当たり前のこと」が理解できません。
逆に、何がおもしろくて、一日何個かずつ覚えるの?と考えているようです。地道に努力するなんてばかばかしい、と思いこんでいるふしすらあります。
もちろん、「地道な積み重ね」がおもしろいわけはありません。けれども、「できなかったこと」が「できるようになっていく」、その道すじに意味があるわけで、そこにおもしろさを求める必要はないと思います。
単語を覚えると、英文の意味がわかるようになる。英文がすらすら書けるようになる。そしてつぎは・・・と、はじめたのはたったひとつのことのはずなのに、できることがどんどん広がっていく。少しずつ変わっていく自分。それを実感することができたとき、人は自分を信じ、自分の人生を歩んでいくことの意味を悟るのではないでしょうか。
受験勉強は長期戦です。小さなことからこつこつと積み重ねていくしかないのです。でもそれは、天にとってはいちばん苦手なことなのです。
自分を客観的に見ることができない
受験などの人生の節目においては、自分について客観的に考えることが重要になってきます。
そう深くはなくても、「自分はなんとなくこれが好きだ」とか、「これが得意だ」とか、逆に「これは絶対に好きではない」「こういうことはやりたくない」とか、とにかく自分についていくつかの事柄をはっきりさせておくことが必要です。
そうでなければ、進路を考えることができないからです。
ですから、受験勉強というのは、人生のうえで意外に重要なプロセスであると、わたしは考えています。
何度もあるテストの結果から、「自分は数学が苦手らしい」、逆に「国語が得意だ」などの客観的なデータを引き出して、それに基づいて、自分のこれからについて考える。得意なところを伸ばすか、逆に苦手なところを伸ばすか、さまざまな角度から考えることで、自分の人生がうっすらではあるけれどもかたちになってくると思います。
そのような理由から、テスト後がとても大切になってくるのですが、天は、テストでどんな点数をとっても、平気なのだそうです。そのときは少しばかりショックを受けるかもしれませんが、まったく平気なのだそうです。そして、けろりと忘れてしまうそうです。
結果を分析したり、今後について考えることには、まったく興味がないそうです。
残念ながら、受験には向いていません。
心が弱い
天は
●やりたくなければ、やらない。
●眠ければ、寝る。
●起きたくなければ、起きない。
本能のまま、「ありのまま」に生きています。もちろんこれも、生き方としては「あり」だとは思います。
けれども、中学生、それでよいのでしょうか。
長い人生を生き切るための「意志の力」を鍛えるのが、子ども時代なのではないでしょうか。もちろん個性は大事だし、大切にすればよいのだけれども、人間として生まれた以上、ある程度の「縛り」の中でやりくりしてみようという気持ちを持つことも必要だと思います。
自分を押し殺して、がまんして生きる必要はありません。けれども、学校へ行くなら遅刻せずに行く必要があるし、授業を受けるなら宿題をしていく必要があります。それ以外のところでいかにはめを外していてもそれは自由だと思うけれども、自由と自分勝手をはき違えているのが、天なのです。
「やる気」もおなじです。「やる気が出ない」なら、「やる気を出してみる」ことも必要なのです。
ではどうするか
天に限らず、上に挙げたような傾向を持つ子はたくさんいると思います。
もちろんそれは個性として、おおらかに受け止めたいと思います。
しかし、受験勉強においては、「個性」は必要ありません。やる子は伸びるし、やらない子は伸びない。それ以外に言いようがありません。
勉強させるために、「ほめる」とか、「好きを味方にする」とか、そんな王道の手は通じない相手ですから、もう、どうしようもありません。
天は「がんばって勉強する」と言葉では言っていますが、たぶんこのさきも、できないと思います。「がんばる」の意味がわかっていないし、「勉強する」意味もわかっていないからです。
ただ、わたしがひとつ期待しているのは、「発達障害ならではの予測できない何か」です。
まだ受験までには半年以上あり、そのあいだも天は今のような状態を続けると思います。けれども、ふと天が「何か」に気づいたとき、奇跡的な「何か」を発揮する可能性があります。
ふつうでないからこそ、爆発的な伸び方をするかもしれない、ということです。
家で勉強はしたことがないけれども、なぜか漢字小テストはいつも満点の天。台本を開いているところは見たことがないけれども、演劇部でせりふを飛ばしたことのない天。家ではほぼ練習しないけれども、ピアノの発表会では、見たことのない指さばきを見せる天。
やっぱり少しへん。
天の中には何か、わたしには想像できない心の働きがあり、それがふいに花開く日が来るのではないかと、思っているのです。
そういう目で見ると、天にはやる気などいらないのではないか。計画などいらないのではないか。積み重ねなどいらないのではないか。ありのままの天を認めてやることで、天はいつかどこまでも伸びていくのではないか・・・
そんな日がいつか来ることを、信じています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。