裏切っても平気

裏切っても平気

自分の息子を、「人を裏切っても平気な人間」と評するのもどうなのかなと思うけれども、わたしの中では、とうとうそのレベルまで到達したな天は、という気がしています。生まれてから現在に至るまで、さんざん裏切られる経験を積み重ねてつくづく実感しているので、断定せざるを得ません。

そもそも発達障害グレーゾーンの天は約束を守れませんが、何よりも気になるのは、約束を破っても「平気」なところです。

たとえ約束を守らなくても、謝ったり、悪びれたりしてくれれば、なんとかこちらにも気持ちのやり場があるかもしれません。

しかしながら、天は平気です(そう見えます)。

自分が悪いなどと夢にも思っていませんから(そう見えます)、謝ることもありません。

「ひどいことをしたな」と自分をふり返ったり、傷つけてしまっただろうか・・・などと相手の気持ちを想像したりすることも、まずありません(そう見えます)。相手がどんなに落ち込んでいても、悪びれたり、気にかけたりすることもありません(そう見えます)。

せめてひとこと「ごめん」と謝ってもらえたら、こちらもいくらかゆずって、気持ちを落ち着けて話をしよう、という流れになりそうなものですが、それがないために、こちらの気持ちはいつまでたっても沸点に達したまま。けれども結局は、おさまりきらない気持ちを胸におさめて、毎日をのりきっていかなくてはなりません。

約束を守らないのは発達障害によくあること、とはよく聞く話ではあっても、やはり守れる子になってほしい。こちらの導きしだいでは、約束を守れる子どもになるのではないか。そう願って、これまで天に約束を守らせるために、試行錯誤をくり返してきました。

けれども、いずれも失敗しています。

子どもに効果があるといわれている方法で、天にはまったく効果がなかったものに、「時間を区切る」方法があります。たとえば、「あと10数えたら家を出るよ。さあ、10、9、8,7・・・」とやるやつです。

これはたいていの子どもに効果があって、大急ぎでなんとか時間内に終わらせようとするものですが、天はそうではありませんでした。減っていく数のほうが気になって、やるべきことに集中できず、棒立ちしてしまうのです。「数えないで!やるから!」と主張するのですが、やるのなら数えたって数えなくたってすぐ始めればよいものを、「数えないで!」と言うのに必死で、行動できないのです。

また、「○○ができていたら、ごほうびとして○○をしようね」という手も、天にはまったく効果がありません。天が小学生のころ、めったにないふたりだけの夕食があり、天を喜ばせてやろうと思って「宿題が全部できていたら、外にごはんを食べにいこう」と約束して仕事に行きました。天は「もちろんやっておくよ!」と明るく言っていたのです。ところが、帰ってくるとテレビを観ていて、宿題はぜんぜん進んでいませんでした。

わたしもがっかりして、「それじゃあ仕方ないね。家でごはんにしよう」と言ったところ、天は泣きわめき、「今からやるから」と言って、宿題を始めました。その時点で、約束とはちがったことになっています。けれども、さっさと宿題を終わらせるならまあよしとするか、とわりきって、片づけなどしながら待っていましたが、急ぐわけでもありません。のんびりとやっています。

結局その日はあまりにも遅くなってしまい、外食に行くことはできなかったのですが、やっかいなところは、天はいちど言い出すと引っ込めないことです。自分のやらなければならないことはできていなくても、「外食に行く」という、自分のやりたいところだけは譲らないのです。「できていないから仕方がない」「自分のせいだから」とあきらめる、ということはけっしてありません。

天の言い分としては、確かに時間どおりにはできなかったけれども、「やる気はあったのだから」しかも「やろうとしていたのだから」、時間に間に合っていなくても、約束のとおりでなかったとしてもオッケーなのです。

え?約束って、そんなものだったっけ?

首をかしげてしまいますが、天がそう固く信じているので、うちではじわじわと「約束」の定義が変わりつつあるような、不穏な空気感があります。

しかしながら、自分の子どもと約束ができない、というのは、親として、かなりつらい。自分の子どもなので、生活の中で「天を信じてはいけない」ことをうっかり忘れて約束してしまうことも多々あって、そのたんびに裏切られ、落ち込むことをくり返しています。

自分の子どもという、気を許した相手に対して、約束を守れないことを見越したうえで先の行動を予定しておくというのは、相当ストレスが貯まります。

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約束は目に見えない

目に見えないそうはいっても、もう十年以上も天とはつきあっていますから、「約束は守れない」ことを織り込んでおくことにもずいぶん慣れてはきました。それに、百歩ゆずって大きな流れで見ると、たとえば一か月くらいのスパンで見ると、天も、約束をまったく守っていないわけではないのです。期限が勝手に一日、または一週間、または一か月ほど延びるなど、天のペースになっているだけで。

つまり、天はうそをつく気はないし、実際うそをついているわけでもないと思います。だから、悪びれることもない。謝ることもない。だって、「やる気」はあったし、人のペースには絶対合わせないけれども、守ってはいるのだから。

約束というものは目には見えませんから、天のようなタイプには、どこまでが約束を守り、どこまでが約束を破ることなのか、判断がつかないのかもしれません。だから、「やる気」という、自分の気持ちが判断の基準になってしまう。

約束が目に見えるように、紙に書いて貼り出したことも、もちろんあります。だからといって守れるかといえば、それはまた別問題。たとえ目には見えても、約束にはかたちがありません。つまりは、どううやったって、「約束」には、天が守れる要素がないのです。

しかしながら、やる気だけでよしとされる社会なんてない。やる気の一歩先へ、つまり行動が伴っていることの必要性を理解してほしいと思うのです。

いつかわかる日が来るのでしょうか。

これからも裏切られてがっかりしたり、落ちこんだりをくり返しながら、その日を必ず来ると信じて待ちたいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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学習塾を経営しながら、発達障害グレーゾーン中学生の息子・天を絶賛子育て中。 楽しかったり楽しくなかったり、うれしかったりうれしくなかったりする天との毎日を、母の目から率直につづります。