春のベランダで思うこと
ガーデニングが好きで、ベランダで、一年草を中心に四季折々の花を育てています。秋から冬は、パンジーやビオラ、種まきのポピーなどのすき間に球根を植えこんで、春を楽しみに待ちます。
球根は、芽が出るまでに時間がかかります。冬の間は、土の下で根を伸ばしているわけですが、そのようすは土の上からは見えません。腐ってはいないだろうか。ちゃんと根を伸ばしているだろうか。はたまた、鳥に見つかって食べられていないだろうか…ときどき不安になります。
やがて、とがった緑の芽が土を突き破って出てきます。待ちわびたぶん、この瞬間の喜びは、この上ないものがあります。
ここからの成長には目を見張ります。芽を伸ばし、葉を広げ、そして今、クロッカスは花が開き、ラナンキュラスには固いつぼみがつき、チューリップはどんどん背が高くなっています。
冬の間の、のろのろと見える成長ぶりとはうってかわって、春に向かって爆発的に成長する姿は、子どもの成長に通じるものがあるな、と思います。特に、発達障害の子どもに。
発達障害の子どもは、成長の仕方が独特です。成長の階段、というものがあるとすれば、一段上って三段下がり、斜めに上って横の階段に寄り道し、今度は五段ほど一気に駆け上っている。すごい!と思ったら、突然転がり落ちる。とても安心できるものではありません。
疲れきって、つきあうのをしばらく休んでふと見ると、やけに大きな花が咲いている。なぜかわからない。見間違いかと思って何回かまばたきして、あらためて見ても、やっぱり咲いている。咲きほこっている。つまりは、ぜんぜんそうは見えなかったけれど、その子の中に、いずれは花となるべきものが、秘められていたのです。
特に期待はしていなかったのに、突然花が咲くことがあるのなら、親のすべきことはひとつです。たとえ今は地味な球根に見えても、必ず花が咲くことを信じて、せっせと水をやり、日の光に当ててやることではないでしょうか。いっけん無駄骨のように見えるけれど、とにかく、とにかく信じて行動する。
最近、それを実感することがありました。
天にとっての花
天は中学校で、演劇部に所属しています。
これは意外な選択でした。授業中、「目立つのはいやだから絶対に手は挙げない」と宣言しているくらいですから、舞台で演技する度胸なんて天の中にはない、と思っていたからです。
また、演劇は「コミュニケーション」です。人と向き合い、練習をくり返し、いくつもの約束ごとを共有し、舞台を作っていくものです。天はふだんから友だちづきあいもなく、コミュニケーションからは距離をとって生活しています。そんな天が、舞台の上でせりふのやりとりをし、相応のリアクションをするというコミュニケーションを成立させることができるのか…と半信半疑でした。
ところが、文化祭での発表で、天はいきなりキャストに選ばれ、初舞台を踏むことになりました。キャストは5~6名。演劇部員は20名近くいますから、大抜擢といってもいいかもしれません。
はたして、天の演劇、どうなのだろう?声は出ているのだろうか、演技になっているのだろうか?まったく想像がつきません。いや、初演技なのだから下手にはちがいないのですが、それが「はじめてだから下手」の範囲内におさまっているのか…気が気ではありませんでした。
ところが、ふたを開けてみると意外にも、天は堂々とした演技を披露していたようです。今年度の文化祭はコロナのため、保護者は舞台発表を鑑賞することができませんでした。ただ、ママ友を通じて、お子さんたちの感想を聞くことができました。それによると、舞台での天は声も大きく演技も自然で、「意外な面を見た」と高評価だったようです。
さらに、一年生の中でひとり、先輩たちに交じって、春の演劇祭のための脚本委員に選ばれました。先輩たちとともにたくさんの脚本を読み、自分たちにふさわしい脚本選びにいそしんでいます。
また、先輩から、夏期演劇学校への参加をすすめられたそうです。これはどうやら、自治体が毎年行っているイベントのようです。「去年はコロナで中止になったけれども、夏に開かれ、演技はもちろん、照明や音響などの裏方の技術も学ぶことができるから、参加するといいよ」と声をかけられた、とのこと。
正直、新鮮な驚きがありました。天はいつの間にか仲間から信頼され、頼られる人間になっていたのです。
さらに、先日の体育の時間、先生に「マット運動が得意だな」とほめられたそうです。天は運動神経はよくありません。体育をがんばろう、記録を出してやろう、などという意欲に燃えてもいません。そんな天が、前転・後転などのマット運動で満点をもらったそうです。天にとっても、青天の霹靂…だったようで、帰っていちばんに報告してくれました。これは、推測するに、バランスボールで毎日体幹を鍛えている成果が出たのではないかと思います。
くわしくはこちらをご覧ください。
つまり、毎日くり広げている不思議なバランスボール運動は、天にとって無駄ではなかった、ということになります。「人生に無駄はない」とはよく言われることですが、まったくそのとおりです。
どういうことだろう…
わたし自身もとまどっています。これまで考えもしていなかった天のあらたな面を、だれかが見つけてくれているのです。
やがて花が咲くのなら
ある友人の言葉を思い出します。
その友人には、お子さんが3人いました。3人を育てて、はじめてわかったことがある、と言うのです。
「その子ひとりだけを見ていると欠点だと思っていたところが、あとあと、実は長所だったのだとわかった」
長男はのんびり屋さん、長女はしっかり者。次男は活発。友人は、長男ののんびりしたところが気になってしかたがなかったそうです。けれども、その後の2人の子育てを通じて、実はその「のんびり」は長男の長所だったと気づいたそうです。長女のキビしいところ、次男のうるさいところも同じく、です。
その言葉を、しみじみ感じます。置かれた場所によって、短所は長所となり、長所な短所となり、その逆転をくり返しながら成長していくのでしょう。
子どもは球根。
大きな花を開かせるために、くさらず、あきらめず、せっせと毎日、水をやることにしましょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。