発達障害の子どもの「経済面」

経済

今日は、発達障害の子どもを「経済面」から見てみたいと思います。

「経済面」といっても、けして大きなお金の話ではなくて、日々出入りする小さなお金のことです。

子育てにはお金がかかる、と言われます。

それは子どもが次々と新しいことに興味を持ち、日々成長するので、それを支える投資が必要だからです。

 

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実際、天の兄である天兄は、赤ちゃんのころから自動車・電車に興味を持ち、その後も恐竜、昆虫…と興味がどんどん変わっていくので、そのたんびに図鑑を買ったり博物館へ連れていったり、大忙しでした。外でよく友だちと遊ぶので、ズボンと靴下がすぐに破れ、ワッペンなどで補修もすれば、新しいものも次々に買う必要がありました。どのお店のどの靴下が丈夫か、ずいぶん研究した記憶があります。友だちのお誕生日会などにもよく呼ばれていたので、その準備やらお礼やら、親も相当勉強して動く必要がありました。勉強もふつうにしていたので、ノートや消しゴム、シャーペンの芯などもすぐに減り、常に補充しておく必要がありました。成人している現在も、映画や釣り、旅行など幅広い趣味と友人を持ち、お金がいつも必要なようです。

けれども、天はそうではありません。

まず、服がまったくいりません。天兄のお古があるという事情もありますが、基本的に外に遊びに行かないので数がいりませんし、破ったり穴を開けたりすることも、まったくありません。そして、執着心が強いため、靴や帽子も、ぼろぼろになっていてもなかなか新しいものに替えません。

興味の対象も、ずっと仮面ライダー一本やりで、移り変わりがありませんから、毎週あるテレビドラマや小さいころに買った図鑑や本、そしてシーズンごとに観る映画で満足しているようです。

勉強もしないので、シャーペンの芯も減らなければ、消しゴムも減りません。友だちもいませんから、何かしらイベントに出かけていくこともありません。

料理などをいっしょにやろう、どこかへ出かけようと誘っても、特に興味を示すことはありません。遊びはスマホがあればじゅうぶんなようですし、その日の100%を使い切ってしまえば、ふてくされて寝ています。

「子どもはお金がかかるし、手もかかる」ことを信じて疑っていなかったわたしは、天の「お金のかからなさ」には、正直驚きました。

それは逆に言えば、経済的には非常に助かる、ということです。ありがたい、と言ってもいいかもしれません。二酸化炭素も発生しませんから、地球にとってもエコですね。

けれどもそれは、「何も起こらない」ことを意味します。

子育てをしている毎日なのに、「はっ」という発見や、「おお」という喜びや、「ええ~」という驚き、「なるほど」という納得が、まるでないのです。

以前友人と話していたときに、親として、子どもに何を望むか、という話になりました。友人のお子さんは有名大学に通っていましたが、やる気をなくして家でゲームばかりしている、とのことでした。

そのときに友人とおおいにうなずきあったのは、子どもがどこの大学に行っているか、どこの会社に勤めているかは、どうでもいいよね、ということです。

結局は、どんな学校でも、どんな職場でも、子どもが「いきいきと生きてくれていること」が、親はいちばんうれしいのです。

そういう意味では、天のように、「経済的でエコで、なんにも起こらない子ども」を持ったことは、かなりつらいものがあります。まったく「いきいき」しているように見えないからです。

親は、いきいきしている子どもを、投資をして支えたいのです。

ただ、この問題を考えていて、ふと思い出したことがあります。

わたしが以前、自分の顔について、「もうちょっと立体的になりたいな」という話を、天にしたときのことです。

そのとき、天はごく自然に、こう言ったのです。

「いいんじゃない。だって、顔はひとりひとり違うんだから」

はっとさせられました。

そのとおりです。

人間は、ひとりひとり違う。つまり、「いきいきしている状態」もひとりひとり違う、ということです。

天がふてくされて寝ているのも、ぜんぜんそうは見えませんが、ある意味「いきいきとした感情の発露」の一形態かもしれません。好きなものしか食べないのも、片づけをしないのも、約束を守らないのも、天なりの「いきいき」を表現しているのでしょう。

そうであれば、その、いきいきした天を、認めるしかありません。

親としては、ちょっと遠慮したい感じの「いきいき」ではあるのですが。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 

 

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学習塾を経営しながら、発達障害グレーゾーン中学生の息子・天を絶賛子育て中。 楽しかったり楽しくなかったり、うれしかったりうれしくなかったりする天との毎日を、母の目から率直につづります。