塾に通わせるってなんだろう

塾

天を、塾に通わせることにしました。

中1の3学期…時期的には少し早いかなと思いますが、決断しました。その理由としては、いくつかあります。

中学に入ってから、天のようすをじっくり観察した結果、

●家ではまったく勉強しないことがはっきりした。

●自分からは勉強しないことがはっきりした。

●わたしの言うことは聞かないことがはっきりした。

以上のことが判明しました。これ以上長く観察しても、結果は同じです。これはなんらかの手を打たなければならない、と決心しました。つまり、わたしは天の勉強、という案件からは撤退し、プロの手を借りることにしたのです。もちろん、天もすすんで、というわけではありませんが、あっぱれ高校をめざすならしようがないか、と、合意の上です。

 

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できれば2年生の終わりごろまで自分で勉強してくれれば、家計的にも助かるなと考えていたのですが、背に腹は代えられません。

選んだ塾は、天兄が通っていた塾です。

全国展開はしていますが、大きな塾ではありません。ただ天兄が通っていたということで、塾長さんとは長いつきあいになっており、目をかけてくださっています。

また、天兄がチューターとしてアルバイトをしている関係で、従業員割引が適用され、なんと授業料が3割引きになります。1割引きくらいなら、もっとほかの塾を探したかもしれませんが、3割引きとなれば、もうここ一択でしょう。

これまでも夏期講習・冬期講習など短期で何度かお世話になっていました。その前後にテストがあり、今までに計4回テストを受けていますが、塾長さんの話によりますと、そのたびに4ずつ偏差値が上がっているそうです。

ということは?

各季節4ずつ偏差値が上がれば、4×4で、一年で16偏差値が上がることになりますから、2年で32,つまり天は偏差値40から始まっていますから、72まで上がる計算になります。

まあ、それはあくまで計算上の話で、現実的ではないでしょう。望みを持ちすぎては、天の負担になってしまいます。

しかし、思いがけない展開

展開

天に塾へ行って勉強してもらう、そこでひとまずわたしの仕事は終わりかと思っていました。

でも、その見通しは甘かった。

ここからが、たいへんだったのです。

2回目の塾当日のことです。間際になって、「宿題ができていないので今日は行けない」と、天が言い出しました。

宿題ができていないので、行けない…?

耳を疑いました。髪の毛が逆立ちそうになりましたが、ここは冷静に冷静に。

「それなら、今から大急ぎでやれば?」と、わたしは提案しました。まだ塾の始まる時間までは、1時間半ほどあります。

「今からやっても、終わらない」と、天は答えました。

わたしはあんぐり、と口を開けました。

終わらないほどの量の宿題があって、しかもできていないのなら、昨日、なぜあんなにテレビを観ていたのだろう。なぜ、あんなにバランスボールで遊んでいたのだろう。行動のつじつまが、まるで合っていません。

そして、いつもの、「ぐるぐる主張」が始まります。同じ主張を、自分の意見が通るまでくり返す、あれです。宿題ができていないのなら、すぐに始めればよい。それだけのことなのに、天には理解することができないようです。または、まずは塾に行き、「宿題ができていない。だから次回までにやってくる」と申告すればよいのです。

その、どちらも選ぶことができません。つまり、天の中では「宿題ができないから行かない」という結論が先にあり、だれが何を言っても、それ以外のことは見えないのです。だれかの意見によって、「もしやそうかも?」と別の考えが浮かんだり、「なるほどそうか!」と納得したり、という展開は、天にはありません。


→くわしくはこちらをご覧ください。小室圭さんはもしや…


結局、その日は塾には行きませんでした。

こういう、行動拒否の新しいパターンが出てくるとは、考えもしていませんでした。

つまり、「塾に行く」というルールがそこにあるのに、それを無視する、というやり方です。

「行くことになっているもの」「やることになっているもの」に対しては、今までは天は忠実に従ってきました。自分の中で受け入れて、それなりに消化しているものと考えていたのです。

しかし、まったくちがうパターンが出てきた。これはもともと天の中にあったものなのか、それとも、成長とともに出てきたものなのか。

これは、よく考えておく必要があります。これからの生活で、このパターンがまた顔を出す可能性があるからです。

その後も、塾の日が来るたびに、同じことをくり返しています。寝ていて起きてこない。宿題をやり始めるが終わらなくて、ふてくされる。ただ、遅刻はしても、休んではいません。

天に塾は必要なのか

こういう状態で、塾に行かせる必要があるのか。そう思われる方もおられるでしょう。

でも、わたしは必要だと思っています。「塾へ行く」ことそのものが大切なのではないのです。勉強することは大切だという、親から子へのメッセージが大切なのです。

たとえば、伝統芸能の家庭に生まれたら、芸を継承するよう、生まれたときから教育されていきますね。

漁師の家に生まれたら、漁で生きていけるよう、教育されます。

うちは、継承する家業もありませんし、家宝や財産もありません。だからこそ、子どもに与えてやれるのは、教育だけだと思っています。子どもに、将来どんな環境下でも生きていけるように教育を受けさせる、しかも、将来その子を助けてくれるだけの結果を出しておくというのは、昭和的ではありますが、大切にしたい考え方だと思います。

ただ、その子に勉強が向いていない場合。

無理に勉強をさせることはできない、とも思います。

天が勉強が好きでないのならば、無理に勉強させる必要があるのだろうか、という迷いもあります。けれども、天がいつか、光に向かって伸びていく、そんな日が来ることを信じたい気持ちもあるのです。

子どもの自主性を尊重する、とはよく言われることですが、どこまでを尊重すべきでしょうか。「やりたくない」ことを尊重することが、自主性を尊重することなのでしょうか。

このたび、天に聞いてみました。

「そんなに行きたくないのなら、塾を辞めようか」

すると、天は答えました。

「やめたくない」

これにも、驚きました。

「どうして。行くのがいやなんだよね?」

「だって、受験が心配だから」

なるほど。

自分の中に、いくつもの矛盾を抱えた天。

その矛盾を、けして解消しようとはしない天。

もしかすると、これは、進化した人間の姿なのかもしれない、とも思います。

大昔、人間が生きるか死ぬか、の心配しかなかった時代には、人は、自分の中に、矛盾を抱えている余裕などなかったのではないでしょうか。

せっぱつまった環境でなくなった現代だからこそ、発達障害がフォーカスされているのかもしれません。

そう考えると、少し楽しくありませんか?

発達障害が、最先端の、進化した人間の姿だとしたら。

ただ、その楽しい気分は、少しのあいだ、です。

すぐに現実が、目の前に降ってきます。

さて、今週の塾には、天は素直に行くのかどうか。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 

 

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学習塾を経営しながら、発達障害グレーゾーン中学生の息子・天を絶賛子育て中。 楽しかったり楽しくなかったり、うれしかったりうれしくなかったりする天との毎日を、母の目から率直につづります。