「時間の使い方」がなんだかちがう

時間

発達障害グレーゾーンの息子・天を見ていると、この子には「中間」というものがないのだな…とつくづく思います。

「食べたいもの」と「食べたくないもの」の中間。「好きなもの」と「好きでないもの」の中間。「やりたいこと」と「やりたくないこと」の中間。そして、「起きている時間」と「睡眠」の中間。

天はお寿司が好きで、おどろくほどの量を食べます。そして、好きでない青菜やきのこ類は絶対に食べません。「味見してみようかな」「ちょっとだけでも食べてみようかな」という気持ちはまったくないようです。

好きなテレビやゲームは、時間があればあるだけやります。そして終われば、「もう起きている意味はなくなった」とばかりに寝てしまいます。

やりたいことはいちばんにやり、やらなければならないことはギリギリまで後回し。でも、やりたいことが終われば、やらなければならないことをやる前に寝てしまう。

たとえば、テレビでも、わたしは見たい番組が終われば消しますが、天はそうではありません。「テレビを観る」行為そのものが好きなのでしょう。観たい番組も観たくない番組も、次から次へとどんどん観る。番組を作る側はテレビは消させないようにあの手この手で魅力的に攻めてくるものですが、その戦術に見事にはまっています。

そして、テレビを消したとたん、寝てしまう。

やりたいことだけさっさとやって寝てしまうというのは、それだけ聞くと、潔くて案外悪くないように聞こえますが、一緒に暮らしている人間にとっては、何よりも親にとっては、困ったものです。

何が困るかといえば、やりたいこと以外のすべてが、「後回し」枠に入ってしまうことです。具体的には、勉強はもちろん、ごはんを食べたあとの片づけや脱いだ服の片づけ、翌日の準備など。また、必要な連絡や学校からのお手紙など。

天は片づけがもともと苦手ではあるものの、その時間すらとらないとなれば、これはもう、「苦手」どころではありません。おおげさに考えずに、食べたらその手で「お皿を運ぶ」、脱いだらその手で脱衣かごに「入れる」。それだけのことなのに、天にとってはものすごく重い荷物を運ぶかのような、またはとんでもない距離を移動するかのようにとらえてしまっているようです。

「すぐやろう」と声をかけても、「わかってる。あとで」と返事が返ってきます。

あとでって、いつ?

「だから、あとで」

その「あとで」は、永遠にやってきません。

学校からの手紙は、夜中にごそごそと明日の準備をしたときにしか出てきませんから、わたしが目にするのはたいてい翌日以降です。学校もそれを見越して早めに出してくれていますから、特別困るわけではありませんが、頭の中が今日これからの予定でいっぱいになっているときに、家庭訪問の返事などで先々のスケジュールをあたふたと確認しなくてはならないのは、けっこうめんどうではあります。

先日尿検査があって、それも朝になってからばたばたと、スポイドがないシールがないと大騒ぎしていましたが、大丈夫だったのだろうか。

 

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時間はひとりのものではない

時間はみんなのもの

本来、生活の中にはすきま時間がたくさんあるものです。

お湯がわくまでの数分、準備をして出かけるまでの数分、家に帰ってひと息ついたときの数分…

人は「何もしない」すきま時間に、明日の予定を確認したり、ちょっと片づけでもしてみるか…と思い立ったり、または、あ、今日は空が青い・・・と気づいたり、鼻歌でも歌ってみたり、となりにいる人に話しかけてみたり、と、オリジナルで情緒的な活動をするのではないでしょうか。しかし、天の場合、それがない。人間らしさが表れるすきまがない。

もちろん天は天でやりたいことを存分にやっていますから、充実感はそれなりに感じていると思います。

けれども、なんだかちがうと思う。

時間は確かに「個人の持ちもの」ですが、「みんなのもの」でもあると思うからです。

個人の時間を持ち寄って家族の時間が作られ、またはクラスの時間が作られ、部活の時間が作られ、職場の時間が作られているのではないでしょうか。個人の時間を少しずつゆずり合うことで、その場の時間が成り立つと思うのです。

だれかが話しかけてきたら、手を止めて聞く。だれかが出かけるときには、「いってらっしゃい」と送り出す。だれかが帰ってきたら「おかえり」と迎える。自分の時間をちょっとずつ、そこにいるほかの人のために使う。それが人間ではないかと思います。

自分の時間を自分最優先で、やりたいことだけにめいっぱい使ってしまったら、家族の時間は成り立たないどころか、家族ですらなくなってしまうのではないでしょういか。

もし天が、「自分のやりたいことだけやって、何が悪い」と考えているとしたら、いつか「自分の時間をゆずる」ことの大切さをわかっほしいと思います。そういう時間を持つことの大切さをわかることができたら、天の何かが変わるのではないか。そして、まわりのみんなをもっと幸せにできるのではないか。

まあ、でもこれからも、自分の時間のカプセルに閉じこもっていたと思ったら、突然そのカプセルを壊して飛び出てきてみんなを驚かせたり、またはカプセルごと飛びはねて周りをケガさせたりしていくのでしょう。まったく、天には中間がない。

けれども、大丈夫なのでしょう。

だって、今まで、なるようになってきたのだから。

これは大学時代の友人の言葉です。

なるようになってきたのだから、これからもなるようになると考えると、なんとなくやさしい気持ちになります。それでいいのかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 

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学習塾を経営しながら、発達障害グレーゾーン中学生の息子・天を絶賛子育て中。 楽しかったり楽しくなかったり、うれしかったりうれしくなかったりする天との毎日を、母の目から率直につづります。