以前「親の前でいい子が心配」という記事を書きました。
これは、発達障害の子どもの話ではなくて、経営する塾にときどきやってくる、「親の前ではいい子」、つまり「他人の前ではよくない子」についてです。
わたしが接する範囲の話になりますが、発達障害のお子さんで、「親の前でいい子」はほとんどいません。
発達障害グレーゾーンの息子・天をはじめとする発達障害のお子さんは、「よい子を演じよう」などという器用な行動をとれない子がほとんどです。いい意味でも悪い意味でも「ありのままの自分」です。むしろ、親の前でいい子で、かつ問題を起こしがちなのは、発達障害でない子どものほうが多いのです。
前回の記事では、「親が怖い」ケースについて書きました。理解のない親が怖くて、親の前でだけいい子になる場合です。
けれども最近、もう一種類あるな、と思うようになりました。
それは「理解があるふうの親」です。
いっけん、とてもよい親なのです。賢いし、物腰もやわらか。子どものこともよく理解しているように見えます。
しかし、本当は理解していません。
子どものすべてを認めているように見せながら、本音では子どもに対して不満たらたら。でも、「理解があるふう」なので、面と向かって子どもに小言を言ったりしません。
ではどうするか。
他人を巻きこんできます。
「字が汚いことが気になるのですが、先生はどう思いますか?注意してもらえますか?」
「この問題のやり方はこれでよいのでしょうか?わたしはおかしいと思うのですが」
いちいちたずねてこられます。「理解ある親」を装っていますから、もちろんわたしは黙って見守っているのですが…とつけ加えることを忘れません。
でも実際は他人に相談するくらい気になっているのですから、見守ったりしないで子どもに直接聞いてみればよいのです。
「字、汚くない?」
「この問題、この解き方でいいの?」
ふつうに尋ねて、ふつうに対話すればよいのです。
けれども、「理解があるふう」なので、子どもとの関係を波立たせるような行動はけっしてとりません。
「理解があるふうの親」のやっかいなところは、本音では「字をきれいに書いてほしい」「この問題は正しい解き方で解いてほしい」という自分なりのゴールが明確にあることです。もし対話を始めて、子どもが自分と異なる意見を言い始めて対立するような事態になったら困るのです。ですから、他人でしかも先生という権威のあるわたしに、「子どもを自分の思うとおりに導いてほしい」と言ってくるのです。
わたしは教育者として、子どもの旬を待って、必要なことはそのつど伝えています。保護者の方とよくお話はしますが、保護者の方の意見で方針を変えたりはしません。今その子に必要か必要でないか、こちらで判断して、保護者の方にお伝えしています。
ですから、保護者の方がこのような話を持ち込んできたとき、「どうやって理解してもらおうか…」と眉毛を寄せることになります。
困っているのは、わたしだけではありません。お子さんもおなじです。
こういう親のお子さんは、非常に困った立場に立たされています。親が素直に気持ちをぶつけてこないので、自分もぶつけることができません。思いきって何かぶつけたとしても、(理解があるふうなので)本音では返してもらえず、いつも釈然としない思いが残ります。「理解があるふうの親を理解するふうの子ども」にならざるを得なくなるのです。しかし、親が本音では自分に不満があることは、なんとなく伝わってきます。真綿でしめつけられているようなものです。
結局、心の中に不満を貯めこむことになります。
そして、不満がありながらも、いつも自分に都合よく察して動いてくれる保護者のおかげで快適に過ごすことができているので、察してくれない大人に出会ったとき、敵対感を持つようになります。本来は親に対して爆発すべき不満が、違った方向に爆発してしまうのです。
返事をしない。むくれる。無視する。物に当たる。
「親の前でいい子」つまりは「他人の前で悪い子」の誕生です。
以前、先生の話は真剣に受け取らなくてよい、という記事を書きました。
その記事とは少し異なる意見になるのですが、たとえば学校の懇談などで「お子さんに問題がある」と言われたときは、半分は聞き流しつつ、半分は真剣にとらえてほしいと思います。
なぜそんな話が出てきたのか。いったんは冷静に、自分の子どもを他人の子どものように眺める時間をとってほしいです。もちろん先生の見方が偏っている場合もあります。しかし、親の前で見せる顔と、外で見せる顔が本当に違っている場合があることも、心に留めておいていただきたいのです。
親の前でいい子は、親にとって都合のいい子です。それは子どもにとって、不幸なことなのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。