子どもにはほどほどの負荷が必要

経営している塾では、子どもを見守る視点で指導を行っています。

わたし自身毒親に育てられたため、親の心ない言葉に傷つきすぎて素直に成長することができませんでした。現在もかなりひねくれています。ですから、できるだけ子どもの個性を大切に指導することを心がけてきました。

つまりは、子どもをよく観察してほどほどを見きわめ、やさしく笑顔で対応し、よくほめて、「できた」という満足感を持ち帰ってもらう。もちろん厳しい言葉はNGです。

なので、子どもたちはいつもごきげん。楽しそうに帰っていきます。

しかし、長く指導を続けていくにつれて、子どもの成長は「個性を大切にする」という考え方だけでは限界があるな…と思うようになりました。途中で成長が止まってしまう子どもが必ず出現するのです。

低学年のときはいきいきと勉強していたのに、大きくなるにつれてめんどくさそうな態度が目立つようになり、字が乱雑になっていく。指示をしても、「え~」「ムリ」と言い捨てる。

あれれ?こんな子だったかな?

と、ある日突然びっくりすることになります。

もちろん、人は良いようにも悪いようにも変化します。しかし成長期にある子どもたちには、やはり「良い変化」を期待して指導しています。そしてたいていの子どもは良いように変化するのですが、約2割ほどは、違った結果に直面することになるのです。

子どもを信じて、のびのび伸ばそう。そうすればすくすく育つ、とはよく言われる道理であるはずなのに、実際は違う。

この違いはどこで生まれるのだろう。のびのび育てる指導法には、どこかに欠陥があるのではないだろうか。もちろんすべての子どもに有効な指導法などあり得ないだろうけれども、もしや子どもの中には、信じられたり、のびのび伸ばされたりなどしたくないと思う子どもがいるのではないだろうか。たとえば小さい頃のわたしような、ひねくれた子どもとか。

信じるとかのびのび育てるという考え方は、耳ざわりがよいだけで、大人の思い上がり、いやもっと強く言えば子どもに向き合いたくない大人の怠慢ではないだろうか。

と、子どもたちを観察しながらさまざまに考え続けてきました。

伸びていかない子どもには、なんとなくの特徴があります。

非常に大ざっぱではありますが、親から厳しくしつけられている子が多いように思います(やはり小さい頃のわたしだ)。そういう子たちは、「あなたに任せるよ」と言われると、どうしていいかわからなくなるようなのです。そして、伸びるどころか逆にどんどん元気がなくなっていきます。

ということは、この子たちには、もっと踏み込んだ指導が必要、ということになります。

「あなたを信じている」「個性を大切にしている」という遠目の指導ではなくて、「あなたはこうしたほうがいいよ」「あなたにはこういうことが必要だよ」と、具体的な言葉をかけるということです。それは、時には厳しい言葉であったり、叱ったり、突き放したりも含めて、です。

そう考えると、ある仮説が見えてきます。

子どもは一見、ありのまま、元気に無邪気に生きているように見えるけれども、実は心の深いところでは迷ったり悩んだりしていて、自分がどう伸びれば正解なのか、どうふるまえば正解なのか、納得できる規範を欲しがっているのではないだろうか。

調べてみると、心理学の研究にヒットするものがありました。

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子どもは、「思うとおりにやりたいと思う気持ち」と「コントロール力を身につけたいという気持ち」、両方を持っているそうです。やりたい放題やらせてもらえると、させるほうは愛情を持っての行為だったとしても、逆に野放し、つまり無関心ととらえてしまう。その結果、「何をやってもいいんだ」「なんだっていいんだ」と勘違いをして、わがままになってしまう。

ほどほどの負荷を与えられることで規範がわかり、それを乗り越え続けていくことで成長する。

どんなときも、大人は子どもに対して、責任を持って相応の規範を示す責任があるのです。

子どもを伸ばそうと思ったら、信じるだけでなく、見守るだけでなく、子どもの年齢や力に応じた具体的な課題を設定して、その課題を乗り越えられるように言葉をかける。そして乗り越えたときには、すかさずほめて、さらなる成長を促す。

つまり、ある程度の規範を示しながら、締め付けはしない。そしてよく見守って、できたところはほめる。そうすることで、子どもの気持ちは途切れず、成長へ迷いなく向かっていくことができる。

子どもたちの「規範を知りたい」「それを乗り越えたい」、そして「大人にかまわれたい」、という気持ちに応えることが成長には必要だということです。

なあんだ。

それを知って、肩の荷が下りたような気持ちになりました。

「個性を大切」にしようとし過ぎるから、あいまいな指導になってしまう。その迷いが、子どもたちに伝わっていたのです。はっきりと目標を示し、それに向かってがんばれるように声をかければそれでいいんだ。

そう気づいてから、子どもに迷いなく、その場に応じた言葉をかけられるようになりました。口答えされても、毅然と正してさらなる指導ができるようになりました。

わたしも小さい頃に、「情がない」「融通が利かない」「だからだめだ」のような人間性を踏みにじる言葉ではなくて、目標を明快にして前向きな言葉をかけ、背中を押してくれる大人がそばにいたなら、どんなに救われたことでしょう。

厳しい言葉を恐れていたのは、小さい頃のわたしだったのです。わたしは傷つき過ぎていた小さな頃の自分を守りたくて、目の前の子どもに遠慮していたのです。でも、目の前にいる子どもたちは、小さい頃のわたしではない。わたしの前向きな言葉を待っている、わたしよりずっとタフな子どもたちでした。そう信じて、今日も子どもたちに向き合いたいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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学習塾を経営しながら、発達障害グレーゾーン中学生の息子・天を絶賛子育て中。 楽しかったり楽しくなかったり、うれしかったりうれしくなかったりする天との毎日を、母の目から率直につづります。