なぜ、勉強ができないか。それは
大学生の天兄と、天とのオンライン学習が始まって約3か月。今は期末テスト前ですから、期末テストに向けての勉強を行っています。
天兄が天にやらせている勉強はかなりハードです。漢字や英単語、ワーク類は最低3周を課しています。
もちろん、天は3周していません。最大限1周で、猛勉強した気分を味わっているようです。
でも、以前は1周すらしていませんでしたから、大きく前進しているといってよいと思います。
わたしはふだん、勉強のじゃまにならないように家事などをこなしながら、なんとなくふたりのようすに耳をすましています。
勉強のなかで、天兄が天に心がまえや勉強の仕方などを語っていることがあります。その中で、どうやら天のやる気に火をつけたらしい、天兄の言葉があります。
「おまえが頭が悪いとは思っていない。勉強ができないのではない。勉強が足りていない。だから、勉強しろ」
これにはなるほどな、と思いました。
地図を見るのが好きな子が、地理がよくできるとしたら、もちろんもともとの才能もありますが、それは「地理の勉強が足りている」のではないでしょうか。
昆虫が好きな子が、理科がよくできるとしたら、それは「理科の勉強が足りている」のではないでしょうか。
計算が好きな子は多くはないかもしれませんが、もし毎日、計算練習を15分ずつやってみたら。その積み重ねのうちには、きっと計算が得意な子になっていると思います。「勉強が足りた」からです。
これは非常に合理的な考え方だと思います。
勉強ができないのではなくて、ただ足りていないだけだとしたら。だれでも、もうちょっとだけやってみるかな、という気持ちになるのではないでしょうか。
「勉強が足りていない」声かけのよい点
そう考えると、子どもに声をかけるとき、「勉強しなさい」ではなく「勉強が足りていないよ」と言ってみることは、非常に意味があると思うのです。
この声かけには、よい点がふたつあると思います。
ひとつめは、テスト前、子ども自身の気づきを促す力がある、という点です。
「勉強が足りない」と言われたとき、え、そうなの?では何が足りないのだろうか?どうやったら足りるのだろうか?と、子ども自身が何かを考えはじめるのではないでしょうか。そうして自分自身を冷静にふり返ったとき、はじめて身になる勉強ができると思うのです。
ふたつめは、テスト後、目標を立てやすい、ということです。
たとえばテストで90点がとりたくて勉強したけれども80点だったとき、10点分の勉強が足りなかった。100点をとりたくて80点だったときは、20点分の勉強が足りなかった。では次のテストは、その分だけ勉強の量を増やして臨んでみよう。
こう考えられたら、テストの点数を、周りとの比較ではなく自分自身の問題としてとらえることができます。そのとき、勉強が「自分のため勉強」に変わるのではないでしょうか。
また、「勉強が足りない」という言葉は、子ども自身を責めていません。努力が足りないのでも、才能が足りないのでもなく、単に「勉強が足りていない」。だから、勉強すればよい。それだけなのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。