発達障害の子どもを怒ってはいけない。
とはよく言われることです。
しかし、発達障害児は「やらかす」ことが多くて、ついつい怒りがちになるのもまた事実なのです。
ただ、わたし自身の発達障害への理解が進むにつれ、「怒らない」ことの重要さも痛感するようになってきました。
まるでうさぎ
むかし、うさぎを飼っていたことがあります。
熱のこもらない目でじいっと前を見ている。
敵がいないか、四方八方にアンテナを張りめぐらせている。
大きな音がすると逃げ出す。
これは天ではありません。うさぎです。しかし、まるで天です。
人間を動物にたとえるのはどうか・・・とは思いますが、天の行動は、うさぎのそれとよく似ているのです。
うさぎは人になつきません。
抱けばぬくもりを感じるけれど、まったく感情はないように見えました。
友人に話すと、「そうと思うよ。だって草食動物は、基本食べることと逃げることしか考えていないから」という返事がありました。
確かにうさぎを見ていると、生きるうえで大事なことはシンプルにそのふたつだけなのだなということがわかります。
それは、天にも共通しています。
天は痛かったことや怖かったこと、苦かった味などはけっして忘れません。常に不安と緊張を抱いており、自分の存在を脅かすものを恐れているのです。
そんなメンタルの天を怒ったりすると、ひたすら逃げる、つまりは内にこもってしまいます。「なぜ怒られたのだろうか」と自分自身に問いかけたり、「これからどうすればよいのだろか」と前向きになったりはしません。
うさぎになついてもらおうと思ったら、まずは安心させる以外にありません。
天と対等な人間関係を築き、コミュニケーションをとろうと思ったら、けっして怒らないことが第一歩になります。
けれども、怒る要素がありすぎる
食べたごみはそのまま。
出したものはそのまま。
ごはんに呼んでもすぐには動かない。
登校も常に遅刻ぎりぎりの時間なので、あいさつもそこそこに、靴下の中にズボンのすそが入ったままで、ダッシュしていきます。
改善してほしいことだらけなのですが、ここはぐっとこらえて、「昨日よりも(一秒は)早く起きたね」と声をかけ、送り出します。
まずは、天を大人扱いすることにしたのです。
もしわたしが天であったら、どういう状況であれば安心してありのままの自分でいられるだろうか(自分のやり方を貫くという意味で、天はいつでもありのままともいえるのですが)。
そう考えると、いくつかの答えが見つかりました。
まず、天がどういう状態であっても、こちらは感情を動かさない。
わたしが中学生のころ、母親はいつも自分中心でした。どんなときも、わたしの感情を無視したテンションで話しかけてきて、自分の期待どおりの反応を求めてきます。
そのような状況では、子どもは感情を素直に表現することができません。とにかく大人は、あくまでもクールに。感情の主導は、天に任せるのです。
天が朝起きてきたら、「おはよう」とロボットのように言います。
天が「おはよう」と返してきてもこなくても、それで放っておきます。
というのも、天が「おはよう」と言ったとして、つい「わあ、あいさつできたね」などと喜んでしまったら、天は自分がうっかりしてしまった素直な行動を恥ずかしく思って、つぎの日からはけっしてあいさつをしなくなるからです。
または、「おはよう」と言わなかったとして、そこで「朝起きたら、あいさつぐらいしたら?」などときつい言葉をかけてしまったら、天は傷ついてかたくなになり、やはり次の日からますますあいさつをしなくなります。
ですから、こちらは天があいさつを返してきても返してこなくても、クールにいる必要があります。
しかし、毎日おなじようにクールな対応をとるうちに、天は最近「おはよう」と言うようになりました。それはもちろん、気持ちのよい「おはよう」ではなく、無愛想であったり、不機嫌であったり、こちらを見ていなかったり、いろいろです。
しかしながら、「おはよう」に完璧を求めると、その先には進んでいけません。
理想どおりではなかったとしても、それもひとつのコミュニケーションのかたち。言えたらそれでよしとして、次に進むだけです。
怒ってもどうにもならない
そもそも、わたしはなぜ天を怒るのだろうか、と考えてみました。
それは、天のよくないところをなんとかしなくてはならない、と思っているからです。そして、親なのだから、なんとかできるはずだ、と考えているからです。それに、この子をちゃんとした大人にしなければ親の責任が果たせない、という気持ちもありました。
しかしながら、現時点で、なんともなっていない。
そうであれば、怒ることで天をなんとかしようというわたしの考え方はまちがっているのかもしれない、と思うようになりました。
天が中学生と、大きくなったことも大きな要因です。
「どんな結果が出るかはわからないが、だめもとで任せてみるか」と、こちらの気持ちに余裕が生まれてきたのです。余裕・・・というか、あきらめです。
ある意味成長を待つ。ある意味放置。
そして怒らなくなってから、2週間ほどがたっています。
このところ、天が何でも話してくるようになりました。たとえば先週、天が塾を「遅刻したい」と言ってきたのです。
遅刻したい・・・?
それはあり得ない。何を考えているのか。中3の秋になって。と、まくし立てたいところをぐっとこらえて(がまんのあまり顔はシューマイのようにくしゃくしゃになって)「どうして遅刻したいの?」と聞いてみたところ、天の答えは「授業の最初に宿題チェックをすることになったから」と答えました。
目が点になりました。塾の宿題をしない主義を貫いている天にとっては、宿題チェックなど絶対受けたくないもののひとつです。
しかし、これは受験生が堂々と主張してよいことでしょうか。
怒りが爆発しそうになりましたが、ここはさらに顔をシューマイにして、穏やかにまず「そうか」と答えました。
続けて「いい方法があるよ。今から宿題をやってしまおう」と声をかけると、「それはちょっと」と言われてしまいました。
それはちょっと?
しかし、怒ってはいけない。まずは塾を休まないことを優先しよう。
にっこり笑いながら、頭の中はフル回転で稼働しています。
怒らずに、どう言えばよいか。天を萎縮させず行動を止めないために、なんと言葉をかければよいか。
修行です。
今回は、天は意見を言ったのだからそれをよしとして、遅刻を認めることとしました。もしかすると、もっとよい対応があったのかもしれません。けれども、修行途中のわたしとしては、これが今のせいいっぱいです。
そしてこの修行は、これからも続きます。
天はうさぎではない。ということはたぶん、希望があるのです。
天を考えるうさぎにするために。いや、人間にするために。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。