「こすい…」と思われたらおしまい

発達障害といえば一般的に、「真面目で不器用」とか「人づきあいが上手でない」といったイメージがありますが、それだけで語れるような簡単なものではない、と感じています。

経営する塾には、「真面目で不器用」な発達障害のお子さんと、反対に「やたら世渡りが上手(に見える)」な発達障害のお子さんがいます、

やっかいなのは、この「やたら世渡りが上手(に見える)」なお子さんです。

自分が「うまくはやれない」ことをうすうすわかっているので、「うまくやる」ことに非常に熱心で、どうふるまえば自分が楽に上手に立ち回れるか、周りをよく観察しています。そして自分なりに一生懸命考えた「技」をくり出してきます。

たとえば、答えを教えてくれそうな、やさしくて無口な子をたえず探しています。この「無口」であることが肝心です。おしゃべりな子だと、「先生、答えを聞いてくる~」と、大声で告げ口をする可能性があるからです。

また、やる気がないときは、やたらトイレに行きます。10分おきくらいに行くこともあります。体調なども関係してきますから、トイレに行くのを止めることはできません。終わりの時間は決まっていて、全部できていなくてもできなくてもそこで帰ってもらいますから、トイレで時間稼ぎをしているわけです。

このようなタイプのお子さんはもともと外交的で人なつこく、大声を出すのも苦になりませんから、無駄な発信が多いのも特徴のひとつです。

実は自分がいちばんうるさいのに、ほかの子がしゃべったりふざけたりすることには敏感で、すぐに「先生、○○がしゃべっています」と言いつけてきます。心の声はこうです。「ぼくよりしゃべっている子がいるでしょ」。ほかの子をおとしめて、自分を上げようとしているわけです。

また、なんでも人のせいにしてきます。立ち歩くので注意すると、「だって、あの子がうるさいんだもん」「だって、先生が教えてくれないんだもん」と、行動の理由を周りのせいにして、自分の行動を正当化してきます。

この「だって」の部分がなくなれば、ふつうに行動するのかといえば、そうではありません。

うまくやることが最大の目標ですから、周りが静かになったらなったで「静かすぎて集中できない」と言い始めます。考え方を教えようとしても「わからない」をくり返すばかりで、理解しようとはしません。勉強がわかりたいのではない、とにかくその場をのりきることが大事なので、手っ取り早く「答えを教えてほしい」のです。

このタイプのお子さんの最大の問題点は、うまくやろうとすることばかりに集中してしまって、手順を踏んでものごとを進めていくことができないことです。

勉強がわからなければ、質問すればいいのです。「先生が教えてくれない」とは言いますが、「教えてほしい」とはけっして言わず、大声でわめいたり立ち歩いたり、まったく関係のない行動を始めます。結局は、「自分がコミュニケーションがとれない」ことを大声で発表しているわけです。

このようなことが積み重なると、わたしは胸の中でつぶやきます。

「こすいやつだな…」

この「こすい」という言葉は、母の実家である和歌山でよく使われていました。わたしの知る限りでは、この「こすい」は、「ずるい」とは微妙に意味が違います。

「ずるい」うえに卑怯。「ずるい」うえに姑息。「ずるい」だけでは言い表せない、人間のいやな面を集約した、最大限に人を非難する一語です。「こすい」と言われたらそれは、単に行動を批判されたのではなく、人間性を疑われているといっても過言ではありません。

 

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ただ、子どもが外で「うまくやろう」と考えるということは、今までも何度も書いていますが、親が怖いことが関係しています。親の前でありのままでいることができないので、外で自由にふるまっているわけです。その証拠に、「勉強が進まないね。どうしたらいいか、おかあさんに相談してみようか」と言うと、とたんに借りてきた猫のように静かになります。

たとえ発達障害であっても、親がそれを受け入れているご家庭のお子さんは、けっしてそのようなふるまいはしません。もちろん無意識にやってしまうことはありますが、注意すればはっと気づいてやめます。

うまく立ち振る舞おうとするのは、そうしなければ自分は受け入れてもらえない、と思いこんでいるからです。しかしながら、コミュニケーションが苦手という発達障害ならではの特性があるために、とる行動すべてが裏目に出て、結局「こすい」という印象をひとに与えることになってしまいます。

もちろん相手は子どもですから、たとえ「こすい」と思ったとしても、そこで切り捨てることはしません。子どもは毎日成長していて、ときに思いもかけない成長を見せるものですから。

また、保護者の方も、子どもに発達障害の気配がありながらわたしに預けてくるということは、しかも発達障害についてひとことも触れないということは、先生ならなんとかしてくれるかもしれない、という願いを託されているからだとも思っています。

わたし自身がそうでした。

何かきっかけがあれば、天が変わるかもしれない。そう考えて、いつも何かのきっかけを探していたように思います。

けれども、「こすい」と思われたら、そこでおしまいです。

発達障害のあるなしの問題ではありません。子どもが「こすい」と思われないために、親として、できることがあるはずです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 

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学習塾を経営しながら、発達障害グレーゾーン中学生の息子・天を絶賛子育て中。 楽しかったり楽しくなかったり、うれしかったりうれしくなかったりする天との毎日を、母の目から率直につづります。