天、発達障害グレーゾーン、現在中2。
今までの数々の、わたしの「天を勉強させよう」チャレンジにもかかわらず、とうとうまったく勉強しなくなりました。
どのくらいやっていないかというと、来週で夏休みは終わりますが、まだ宿題にはひとつも手をつけていません。塾の夏期講習にはなんとか通っていますが、宿題は無視しています。
とうとう勉強しなくなったか…
中学生という自覚があれば、「すごく勉強しない」までも、宿題くらいは計画的にやるだろう、という最低限の期待をも、あっさりと裏切る天。
まさかの展開に、わたしもどう考えてよいか、困っています。
目下の悩みどころは、この「勉強しない状態」が、通過点なのか、それとも到達点なのか、ということです。
つまり、「勉強しない一時期」を経てふたたび勉強するようになるのか、または「勉強しない状態」をこのさきもずっと続けるのか。
今は確かに勉強しないけれども、二学期になれば気持ちを改めるのだ。とか、3年生になったら本腰を入れるのだ。ということがわかっていた場合、親はさほど心配しないでしょう。
けれども、もし、「勉強しない状態」が、天の到達した、悟りの境地だったとしたら?「ちょっと勉強はしてみたけど、あんまり好きじゃないとわかったから、これからは絶対に勉強しない」とひそかに決心していたとしたら?
打つ手がありません。
なぜ、こういうことになったのだろう…
もちろんベースには、天が発達障害グレーゾーンで、「やりたくないことは絶対にやらない」「計画を立てて逆算して行動することができない」という、性質由来の理由もあると思います。
けれどもここは、わたし、つまり母親との関わりにおいて、何か問題点がないか、検証してみたいと思います。
わたしは基本的に、天に「勉強しなさい」とは言いません。言うのは最低限「そろそろ勉強を始めたほうがいいのでは?」とか「今からやっておいたら間に合うよ」など、気づきを与える言葉にとどめています。
そして、ふだんの会話の中に、「勉強をがんばることで、可能性が広がるよ」「努力するってかっこいいよね」というふうに、勉強に対するよい見方をしのばせるようにしています。もちろん、勉強を肯定することで「なるほど、勉強をしたらいいことがあるんだな」と天が思い、「ちょっくらがんばってみようか」と自主的に勉強し始めることを期待しているわけですね。
けれども、もし天の側に立って考えてみると。
わたしは天の負担にならないようにと、やんわりと慎重に圧力をかけているのですが、天にすれば、「勉強しなさい!」と直球の言葉を浴びせられるのと、「勉強するってすばらしいことだよね」とにっこり笑われるのと、どちらが怖いかと言われれば、そりゃもう、「にっこり」ではないでしょうか。直球はかわせば飛び去っていきますが、「にっこり」は正面で受けとめねばなりません。
そしもう一点。
つね日ごろ、わたしは天をあたたかく見守っているふりをしていますが、心の奥底では、「信じて本当に大丈夫かな?いや、大丈夫じゃないよね?」と、疑っています。その、わたしの「疑う心」が知らず知らずのうちにからだのどこかからしみ出して、天に伝わっているのではないか。だから、天は「勉強しない」という反抗をしているのではないか。思春期まっただ中の中学生の心の内には、そんな複雑な気持ちも隠れているのではないか、とも考えています。
こうなれば、最後の手段
よく、子どもが勉強しない場合は、「ほうっておくとよい」と言われます。
「ほうっておくとよい」
とても簡単そうで、いかにも効果がありそうな、魅力的な言葉です。
しかし、これを実際に行う場合、非常に勇気が必要です。
なぜなら、ほうっておく対象が、「自分の子ども」だからです。
ほうっておいた場合、
そのまま、どんどん勉強しなくなってしまうのではないか
という不安があるのです。そうなれば、取り返しがつきません。
ただ、今まで天に勉強をさせようと思って、さまざまな努力を重ねてきました。
しかし、それらがすべて、うまくいっていない。
ということは、何かを根本的に変える必要があるのではないか。
「何か」とは何か。
試してみたことのない最後の手段、つまり、「ほうっておく」です。
なんのためにほうっておくかといえば、自分で勉強をはじめることを期待して、です。
勉強の話をまったくしないことでプレッシャーを取り除き、天自身が「勉強…もしかして、してみたほうがいいのかな」と気づき、「いっちょ、やってみるか」と行動を起こさせるためです。
けれども、逆に、「勉強の話をしなくなったぞ」「しめしめ。もう勉強はしなくていいんだな」と都合よく解釈されたらどうしよう、という不安がよぎります。
しかしながら、試してみたことがない手がこのひとつしかない以上、試してみるしかありません。
けれども。
しかし…
揺れ動きますが、一念発起して、「ほうっておく」を、やってみます。
ルール
行動変容には、3週間かかるといわれています。その次は3か月。その次は3年。
そこでまず3週間、「勉強」に関する言葉はいっさい言わないことにします。
「勉強したら?」という直接的な言葉はもちろん、「宿題はたくさんあるの?」とか、「塾は今日何時からだったかな?」といった、勉強感をかもし出す、すべての言葉を含みます。
そして、勉強を始めたら、「がんばっているね」「よくやっているね」などと、ほめ言葉を短く伝える。
これだけです。
では、始めます。
1日目
「勉強」に関する言葉を発しない、一日目。
天はたいへん機嫌がよくなりました。当然です。都合の悪いことは言われないのですから。
ときどき「宿題をやらないとなあ」とつぶやき、そして、「こんなにある!」「オワタ」と言っています。
今すぐ始められば、まだ「オワラナイ」と思いますが…
2日目
さらに機嫌よくなり、テレビを観続けています。勉強はまったくしていません。
3日目
バランスボールをしながらテレビを観続けています。途中、「今日は宿題やろっと」とひとりごとを言っていましたが、実際はやっていません。
けれども、機嫌よく、天の家の中の仕事である「家族分のふとん敷き」はさっとやってくれました。
4日目
天のほうから、「夏休みの宿題を、今日はほとんど終わらせようと思う。夜中の3時までがんばる」と明るく宣言してきました。
しかし、結局、テレビを観てしまい、一秒も勉強していません。
5日目
塾の夏期講習最後の日で、まとめのテストがありました。
天は自分で起きてきたものの、もう間に合わない時間です。いつもなら、遅れていくか、またはふてくされてもう行かない、と言い出すところですが、今回は違いました。
「間に合わないから、クルマで送って」と言ったのです。
これは、テスト勉強はしていないものの、遅れずに到着してテストを受けよう、という意欲の表れと受け止めました。そして、クルマで送っていきました。
そして、夜、漢字のノートを1ページ仕上げています。
6日目
あさっては始業式。提出しなければならない宿題が山ほどあります。
「あ~」と叫び声を上げながらも、なかなかとりかからない天。
結局宿題を始めたのは、夜の8時です。
天はいつも、ダイニングテーブルで勉強します。つまり、勉強の進み具合がわたしからは丸見えです。
立ち上がってお茶を飲んだりトイレに行ったり、まったく集中しないようすに、怒りが爆発しそうになりました。がまんがまん。
意外なことですが、「やらない」状態を見て見ぬふりのほうが、「やっているが進んでいない」状態を見るよりイライラしないのだな…という、自分の気持ちをよく理解できました。
7日目
明日が始業式なのに、宿題がさっぱり進んでいないようすに、わたしも本気で心配になってきました。どう見積もっても、一日ではぜったい終わらない量の宿題が残っています。
「大丈夫?」
「どんどんやったほうがいいよ」
と、つい、声をかけてしまいます。
天のほうは、ぜんぜん平気。ある意味大物ともいえますが、「なんにも考えていない」と言いかえることもできます。
「できなかったら手伝ってね~」と、ときどき天が言ってきますが、どう手伝えって?まだなんにも、かたちになっていないのに。
どうやら明日までに、夜通しかけて宿題を仕上げる覚悟のようですが…本当に仕上がるのだろうか?
8日目
本日、始業式。
夜通しかけたようですが、宿題は終わりませんでした。英語、数学、国語はなんとか終えましたが、家庭科と美術が時間切れ。
ただ、天の中学では、「始業式」が期限だった場合、「始業式当日じゅうに提出すればOK」というルールがあります。
始業式に出かけた天は、家庭科と美術の先生にできなかったことを正直に伝え、帰ってくるとすぐに宿題を始めました。
家庭科の宿題は、「朝ごはん」と「煮物」を作る。美術は、学級旗のデザインです。
昼ごはんとして「朝ごはんのフレンチトースト」、そして残っていたかぼちゃで「煮物」を作りました。
天は料理に興味がなく、今までまともにやったことはありませんが、リビングで仕事をしているわたしに聞きながら、なんとか自分で最後まで仕上げ、写真に撮ってレポートを作成。
終わると気が抜けて、強烈に眠気が襲ってきたようです。徹夜でしたから、無理もありません。「30分だけ寝る」と、目覚まし時計をセットして寝ましたが、起きません。
結局、まだ宿題があるにも関わらず、3時間も寝てしまいました。
そのようすを見ているわたしのほうが、落ち着きません。「いくら当日じゅうに出せばよい」と言ったところで、それが5時や6時でよいものか?
「起きよう」「起きたほうがいいよ」と、つい、声をかけてしまいます。
けれども、起きることはなく、結局天が学級旗のデザインも済ませて、学校にふたたび向かったのは5時半。
しかし、先生は快く受け取ってくれたそうです。みんなやさしい…子どもにいちばん厳しいのは、母親なのかもしれません。
しかし、実はまだ残っているのです、始業式提出でない宿題が。
それはまだやっていませんが、やらないままに、夜、天は寝てしまいました。
9日目
授業が始まりました。
6時間授業を終えて帰ってきて、天はくつろいでいます。暑かったうえに、体育もあったそうなので、ハードだったのでしょう。コロナのため部活も中止になっています。
残してある宿題をしなければならないはずですが、始めません。テレビを観ています。
「勉強」の話はしませんが、つい「ルールを守る」話はしてしまいました。神妙な顔をして聞いているものの、響いているとは思えません。
天が宿題をようやく始めたのは、10時ごろ。
終わるのだろうか…
10日目
天の通う中学でコロナウイルス感染者が出たため、緊急下校してきました。結果的に宿題の提出日が延びています。天にとっては、よい話です。
しかし、帰るなり、ここ何日かの不規則がたたってか、寝てしまいました。
結局、夜遅くに起きてきて、テレビなどを観て寝たようです。一秒も勉強はしていません。
11日目
今日は、ぜんぜんルールを守れなかったわたしです。
天が起きてこない。土曜日だからなんにもしない、と決めているようです。
けれども、土曜日だからこそ、天と話をしたり、おやつをいっしょに食べたりしたかったのです。
その「がっかり」が、言葉になって出てしまいました。
「がんばっている天が好きなんだけど」「毎日の積み重ねが明日になるのだと思うよ」「このままで大丈夫なのかな」などなど。
これでは、天にプレッシャーを与えてしまいます。
明日から気持ちを切り替えてやり直すことができるのか。自分のことが心配です。
12日目
昨日から考え続けて、今日は「勉強の話をしない」のではなく、天と積極的に「勉強の話」をしてはどうか、という気持ちになりました。
「勉強しない姿を見ていると腹が立ってしまう」わけですが、それは裏返すと、「勉強しなければどうなっていくのか心配」なわけです。また、「〇時から勉強する」と言いながらやらない、「テレビを観終わったら勉強する」と言いながらやらない、それは「勉強しない」ことよりも、「約束を守らないことに失望」しているのです。
その気持ちを正直に伝えてみたら…
今日は天がどんなことをしようと反応せずに、「約束を守らなかったら怒ります」と予告しました。
そうすると、天は夜遅くになって、勉強をやり始めました。
天が何を言っても、まず「そうだね」とあいづちを打ち、静かに、「そうはいっても限度があるからね」と返すと、天に何かが伝わっているように思います。
よし!明日もこれでいこう!
13日目
学校から帰ってくるなり寝てしまった天。
宿題を大急ぎで終えたことで疲れ切っているのでしょう。
起きてからも、「やり切った」という気持ちがあるのか、いつもより穏やかな天でした。
14日目
コロナでまた臨時休校となりました。
夏休みとちがって、臨時休校のときは外には出られないため、天もそうとう退屈している模様。とうとうトランプというアナログな遊びを持ち出してきました。
そこでわたしも加わることに。ふたりなのでまったく盛り上がりませんが、大富豪とポーカーをやりました。子どもとトランプをやるのは楽しい。
勉強については、何も言っていません。
夜遅くになって、天は宿題を始めました。
15日目
今日は、なぜか「明日朝5時に起きて勉強しよう」と心に決めていたらしいのですが…
目覚まし時計が鳴って起きたものの、ぼーっとしたままなかなか始める気配がなく、7時になって、ようやく宿題を始めました。しかし、立ったり座ったりをくり返し、挙句の果てには、答えを写しながら、スマホを観ています。そのあいだ、「集中したほうがいいよ」「集中ってどういうことか知ってる?」と、何度か声をかけましたが…
なるほど、それがきみの勉強のやり方なのか。
16日目
今日はいっさい、勉強の話をしませんでした。
自分の中では成功!ではあります。
しかし、天は今日も勉強していません。一秒も。韓流ドラマを観ています。
17日目
コロナのため休校。
今日も勉強の話はいっさいなし。
そして天も、一秒も勉強していません。
18日目
夫とともに、ゲームのカードを買いに、カードショップが集まる街へと出かけた天。
目当てのカードが買えたようで、しじゅうご機嫌です。
天の好きなことを尊重し、協力しているので、もちろん天のほうもバランスをとって、少しは勉強するそぶりを見せるのではないか、と期待しているわたしたち。
でも、もちろんその期待は裏切られました。
19日目
挫折。
まったく勉強の話をしないことに、挫折しました。
3週間まであと2日と迫っていたところだったので、残念ではあります。
ただ、今の正直な感想は、「こんなにしんどいことは、二度とやりたくない」です。
もちろん、「勉強の話をしない」ことの意義は感じています。しかし、「まったくしない」ことは現実的でないな、と実感しました。
わたしがなぜ挫折したのか…それは、「天の前で、気持ちをこらえていることがつらかった」からです。
天といるとき、自然のままにしゃべったり、笑ったりしたい。もちろん、親としての節度は守るけれども、勉強していない天に対して、「あれ?どうしたの?いつやるの?」とふつうに声をかけたり、「勉強はしたほうがいいよ。だってね…」と、自分の気持ちを素直に伝えたりしたい。もう、がまんしたくない…というのがいちばんだったように思います。
親子が共有する時間の中に、ごはんを食べることや遊んだりすることと同じように、「勉強」は自然に入っているものです。「勉強」だけを会話の中に登場させないのは、非常に不自然で、きゅう屈感があるのです。
親子関係が悪くならない程度には、勉強の話をしてかまわないのではないか…それが親子のコミュニケ―ションではないか。そして、その程度は、親子によっていろいろだと思うのです。
わたしなりに、天とのあいだで「よい加減」を探っていこう、と考えています。
ただひとつ残念なのは、天にとって「勉強の話をしない」ことが本当に効果的なのかどうか、確かめることができなかったことです。「18日間トライアル」では「勉強するようにはならなかった」とはいえるわけですが、この日数で結論づけるのは少し乱暴なような気がします。
先のことを考えると、本気で確認しておきたいことではありますから、自分の気持ちを整えて、今のしんどさを忘れたころにまたいちど、チャレンジしたいと考えています。
今回は、まったくうまくいかなかったわたしの挑戦について、お伝えしました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。